6月 02, 2014

僕は今、息子に何を残してやれるかを考えている。

ある遺伝子学者が言っていたこと。人間なんて重要じゃないんだ、遺伝子こそ大切なんだ・・・という言葉が脳裏に残っている。僕という人間は消えるのだが、もう27年前に僕の遺伝子は息子の中に移してある。その遺伝子学者に言わせるとそうなった僕はもう不要なものだという。遺伝子の運び屋である僕は役割を果たし終えて息子が僕なのだ。
こうしてバトンタッチして僕は再び、若くなって広い世界で人生を過ごす筈である。すばらしいことだ。僕は息子にこう伝えてある。僕が稼いだお金は全部使い切るよ。だからお金は君に残さない。僕が残すのは僕のDNAと僕の人脈だけだ、そう言ってある。

 

彼が大学2年生の秋だったか・・・突然、建築に興味を持つようになった。その変化がびっくりするほど急なのだ。その時、僕は妻にこう言っている。あいつ、きっと自分の中の遺伝子と出会ったんだ・・・と。きっと彼は建築家家族の濃厚な建築のDNAと出会ったのだろう。そして目覚めたのだろう。それと前後して彼はSFCの学園祭の委員長をすると立候補していた。もちろん、僕にも妻にも相談なしだ。その学園祭に出かけて、息子の活躍ぶりを見て僕はすっかり荷を下ろした気分になった。もう僕の力はいらない・・・彼は自分の人生をしっかりやっていくだろう・・・そう確信をしたのだった。

 

そんな彼の幼稚園時代は決して自発性や指導力を感じさせることのない少年だったし、信じられない程にまじめで正義心の強い少年だった。片道一車線の細い車道の向こう側に彼を見つけてこっちにおいでと言っても決してすぐには道路を渡ってこない。横断歩道まで移動して・・・渡って、またこっちにくる始末なのだ。その彼が学園祭の委員長に自分の意思で立候補したのである。自分の意思で建築家になると決めたのだ。
自分で選んだ建築家という職業を彼はなにの悩みも無くまるで天命のように夢中になっている。スイス南端のメンドリジオ建築大学を選んだのも彼自身である。僕はその学校の存在すら知らなかった。自分で選べとさえ言っていない。物事をいつまでも決めない・・・そんな彼なのだが、ぎりぎりになるとしっかり決めている。
今年、大学院を修了するのだがその後の人生についてもいつまでも決めないでいる。これが彼の人生の歩み方なのだろう。計画は練るのだがそれにこだわらないのだろう。いつでも変更して最善の道を選ぼうとしているのだろう。

 

大学が環境情報学科だから建築学科ではない。それがSFCのいいところなのだが構造や設備などの技術の教育は充分とは言えない。坂茂君の研究室には入らないで有名すぎない教授の研究室に入る。メンドリジオでもそのような状態だったらしい。僕も早稲田の理工科大学院で一番人気の吉坂隆正さんの研究室は避けたいた。大学院入学のときに世話になったのだから本当は吉坂研究室にはいるのがマナーでもあるのだろうけれど、僕は個性の強い吉坂さんをファンのように思っている学生たちを避けて自分の建築を探そうとしていたのだろう。
息子もきっとそんな気持ちだったのだろう。観察していると回りに流されることなく自分の道を選んでいる。幼稚園時代には友達のお尻を追いかけてばかりいたのにである。

 

学生時代、息子は時々僕のこう訪ねる。「パパ、今日は何時に帰る?」そんなときは必ずリビングルームに模型や図面がいっぱいになっていた。僕の意見を聞こうというのだ。あるとき隈研吾に逢ったのだがこの話をするとうらやましがる。自分の娘は決して親の意見を聞こうとしないというのだ。君の息子は優秀だね・・・とも言ってくれる。慶応時代に彼は隈さんの教室にも出入りしていたらしい。
僕はこう慰めた。息子と娘じゃ違うよ・・・と。それにしても父はいったい息子にとってなのなのだろう。僕はこう考えている。人の心の中には2つの心がせめぎ合っている。1つは記憶が自分を引っ張る。父母への想いもあるし伝統への思いもある。もう一つ、人の心は大きな好奇心と未来への希望や願望がある。生命を思い切り羽ばたかせて記憶など振り切って前似進もうとする力がある。建築でも伝統に引きずられ過ぎるといい結果が生まれない。父母への愛が深すぎても未来への飛翔が難しくなる。適度に愛しながらその絆を切る力が必要である。ふっと息子のことが心配になる。でも彼は大丈夫だ、引きずられすぎてはいない。中国でも伝統やアイデンティティへの関心は深いのだが僕はこう言っている。前をむいて歩こう、伝統からもアイデンティティからもどうせ逃れられないのだから考えなくてもいい・・・そう言っている。

 

息子は・・・初めは日本という自分の文化から離れていたから3年ぐらいは日本ですごそうと言っていた。尊敬する日本の建築家のところを打診するといっていた。息子の未来について何も言わない僕に彼の方から僕の意見を訊いてきた。パリでの時だったかメールでだったかは忘れたけれど、親父はどう考えているか知りたいと言うのだ。僕には僕の人生のプログラムが漠然とだがある。僕がいなくなる時は必ず来るのだからその時を考えて自分のオフィスの始末の付け方や残されるスタッフや関係者の処し方の計画を始めてもいた。
先ず、Kという会社をつくった。これは僕のデザインした製品を製造し販売する会社なのだが、こうすることで残された関係者はそれを製造販売することで会社を維持できる。

 

日本の社会は年寄りには冷たい。新しいものをいつも探しているから年寄りはいらないと考えている。インターネットが発達することでデザインも映像化する。映像化して新鮮な映像を生み出す人たちにメディアは群がる。思想は疎かになりデザインが白痴化し、デザインやイメージが消費されるようになる。企業は面白いものだけをつくるようになる。深い感性をもつデザインは好まれないから生まれない。そんな時代に直面して売れるか売れないかではなく「本当にいいもの」をつくる会社を興したのである。すぐには売れないがそのうち、売れるようになるだろうと考えてもいた。

 

その上、設計事務所の名前を「黒川雅之建築設計事務所」から「K&K」と変えた。「Kスタジオ+Kブランド」の意味であるのだが、心の底には僕がいなくなっても使える社名・・・が頭にあった。
僕は息子にこう告げた。いつでも帰っておいで・・・、帰ってきたら自分の会社をつくるのがいい。自分の城を持つといい・・・そう告げた。オフィスに余裕があるからそこを使えばいい・・・稼ぎが増えたら家賃もらうからね、と。僕のオフィスにはテーブルを借りて自分のオフィスを持つ若者がいた。今はスタッフなのだが週に1日は自分の仕事したいというスタッフが半自立している。ネットワーク・オフィスのようなものである。息子をその自立した建築家として受け入れようというのだ。
事実、最近見た彼の作品はなかなかである。もう自立できる。勉強は生涯するものだから一人で歩き始めるといい。

 

最近、彼はスイスでもう少し仕事をしたいと考えている。ピラミッド型の組織は作るつもりは無いとも言っている。それは僕の構想と全く一致する。そこで前からの構想が生き生きとし始める。息子はヨーロッパの友人とネットワークを持てばいい。日本にもきっと友人たちがいる。中国には僕の関係がある。アメリカはどうなのかは知らないが友人がいっぱいいるらしい。そうなったら彼の構想の実現が近づいている。拠点はスイスでも東京でも北京や天津でもいい。僕が5月に天津のパトロンとつくった建築事務所はまだコンテンツがない。固まっていないのだ。そこに彼のオフィスが生まれてもいい。

 

6月の終わり頃から一週間程の北京、天津の旅を息子としてくる。マダガスカルに住んでいる一番年長の息子がまだロンドンのADスクールにいる頃、ユーゴスラビアでのコンペの審査会に同道したことがある。やっと一番年少の息子と旅ができる。僕のマネージャーが今、詳細な計画を立ててくれている。要するに僕のネットワークを息子に繋ごうというのが僕の構想である。どんな建築家人生を過ごすか知らないが自分自身の死後の時間も見据えてのヴィジョンを描くのは楽しい。

 

そういえば・・・と思い出す。建築家だった父が死後のことを考えていろいろ計画していた。誰が家に伝わる位牌や黒川家の墓のケアをするか・・・から遺産相続はどうするか・・・であり自分の葬式をどう行うか・・・という計画である。まだ元気な内に父は自分の葬儀のときの「会葬者へのお礼の挨拶」の原稿までつくっていた。妹の話では、そうする内に、祭壇はどこにつくって・・・控え室をどこ・・と計画して、「ところで僕はどこで挨拶しよう?」と言い出したそうである。自分の葬儀に自分が出席しようと言うのである。父らしいほほえましい話である。僕も亡霊になって息子の設計に口出ししているかも知れない。

 

どうも僕は父に似ているらしい。こうして、息子のネットワークづくりまで手配している。死後のスタッフの生活まで考えている。僕の身体の中にそういえば父の建築への情熱や思想が宿しているのだろう。それを受け継いで僕は自分の思想を育てている。あの真面目だった父の血がこの僕の身体のなかに僕らしい真面目さで流れている。息子の慎重な姿勢も祖父から父を経て彼の中に息づいているのだろう。

 

つい最近のことだけれど、天津にできた「夢蝶庵」は僕のこれまでの殻を脱ぎ捨てた新しい建築だと思っていた。しかし、よく観察するとまだ25歳頃、大学院生だったころにカウフマン財団に提出した構想をそのまま、継承している。数歳のころに人間性ができるという。二十数歳のころに僕の今の思想がもうできていたらしい。きっとその先、もっと深いところに父が描いた構想があるのだろう。
近頃、父や母に会いたくなる。近頃の自分の写真を見ると父にそっくるなのだ。自分の中に運んでくれた父のゲノムに感謝したくなる。息子との旅が楽しみだ。二人目の妻の間にできた子供たち二人とはその後、逢えないままだ。きっと死ぬ前には逢ってくれるだろう。とっ散らかして生きてきた人生をもう一回、とっ散らかして生き直してやろうと思っている。僕のことだから死後のことは忘れないだろうけれど(``)。

 

(写真は僕の近影。夏書亮さんの撮影である)

5月 30, 2014

中国の党家村という村を訪ねたことがある。西安での仕事のついでにタクシーを走らせて到着したときは感動したものだ。世界のいろいろな都市に行くといつも人の住まいと集落を探す。住まいの方はいくら興味があっても簡単にはみせてくれない。集落はその点、隅から隅まで徘徊しても叱られない。

党家村の街路はまるでヨーロッパの田舎町の街路と変わらない。煉瓦や石や土の壁が変化しながらつながっていて、ところどころに井戸があったり門があったりする。ヨーロッパの都市のように広場がないのだから都市内部のコミュニティは強くないようなのだが、閉ざした門の内に院子と称する中庭があって閉鎖的な住戸が街に対してではなく自然に向かって解放されていることに気付く。ヨーロッパの街にも中庭があるのだがそこへ向かっての開放性には大きな相違がある。

僕は思うのだが、西洋の壁型建築(これは洞窟型建築と僕はいっている。洞窟がその原点になったのだと思うからだ)と中国の壁型建築では中庭への開放感が違うのだ。中国の四合院では確かに外部に対しては閉鎖的だが院子という中庭には開放性がつよい。いつも閉鎖している門から想像しても中庭は私的な空間だったのだろう。その私的な空間に向かって家屋は開放的である。四合院は北方からの建築だから防寒性が重要だから当然、南方のような開放的な柱梁型のファサードではない。

広い中国のことだから南方系の建築が主流の地域もある。四合院のように門があり四方を壁で囲いながら内部には柱梁の構造を持つ建築もあるのだが、いずれにしても外に向かっては閉鎖的で壁を接して集合する集落が多い。これまで東アジアには共通する文化があると仮説を立てていたのだが中国の建築や集落を見ると、中国には西方の文化が濃厚だと感じざるを得ない。西洋と陸続きの大陸だから当然なのだろう。

それに対して、日本は東アジアに属しながら建築は顕著に南方的で海洋型だなと思う。高床もそうだし外界への解放性だってそうだ。風が通り過ぎる家・・・これが南方海洋型文化を表現する建築の姿である。それを見ると中国の建築はあまりにも異なっている。室内での生活を見ても中国では履物を履いたままで過ごしている。家具だって唐の時代にはもう西方から入ってきている。そもそもは履物を脱いで胡座で座る文化だったところへ椅子の文化が導入されて大きな椅子状の床に履物を脱いで胡座をかく生活が根付いたようである。海洋型、あるいは農耕型の胡座文化に狩猟型の椅子の文化が入ってきたのである。当然、そこでは椅子も胡座のための椅子になる。中国の椅子は四角い台のようなものに手すりのようなものをつけた形をしている。手すりのような形であって背ではないから西洋の椅子のように背にもたれる座り方をしない。

中国の椅子がどれもこれも、名作といわれる明朝の椅子だって座り心地はよくないのは背の文化がないからだと僕は思っている。胡座の文化を背景にして発達した椅子は西洋の椅子のような背を持たないのだ。中国の家具はどうやら胡座家具というべきものだったのである。そして現代デザイナーのデザインする椅子もこうして背の意味が消えた家具になっている。

集落と建築と家具とについて西洋のそれと比較するといろいろ面白いことが見えてくる。日本が単純に中国文化の影響で生まれたと言い切ることはできないのである。中国も日本を含む南方海洋型文化と同じ顔を持っていただろうし、その大きな影響を受けて唐以前の家屋では胡座の生活だったのである。事実、中国の南方と北方では相当に民族も異なり生活文化も異なっている。島国日本のように収斂して日本の独自の文化を形成するのではなく、原始的文化が多様な他の文化の影響によって変化していく様子が見えてくる。収斂ではなく拡散型なのだ。日本のように明確なアイデンティティは見えては来ないのである。

西洋の壁型建築では閉鎖的だから当然,人々は想像力を駆り立てて壁にイメージを描く。壁画が生まれるが同時にキリスト教などの壮大なイメージの王国を築いていく。壁にはそのイメージが壁画や天井画として描かれる。海洋型の日本では風の建築が主流である。柱と屋根だけがあり自然と連続的である。壁が培う想像力はここでは生まれない。代わりに強烈な自然の印象が人間を捉えることになる。描く壁は無いのだから屏風絵やふすま絵、或いは芸術的な装飾のある小道具になる。自然の風の中で過ごす日本人が育てていくイメージは花鳥風月になっていく。

中国ではこの南方系の自然との生活を反映した花鳥風月の文化と北方の防寒からくる建築とそこでの文化と西方からもたらされる狩猟民族の文化、家具などの文化が多様性を保ちながら高度に合成されていく。中国のアイデンティティがあるとすればこの多様性なのだろう。多様性から多重性を導き出した高度な総合力なのだろう。計画性が欠如する現場主義の中国人の資質もこの多様な時代の多様な状況のせいなのだろう。

(写真は党家村の家屋、四合院)

5月 25, 2014
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心の中に宇宙があるから、宇宙のことを語るのに自分の心の中を覗くと宇宙の思想が見えてくる。いろいろあるけれど生命ってなんだろうと考えるとちゃんとそれなりに教えてくれる。調和って何だろうと思ってもその答えがちゃんとある。

だから詩人は言葉で世界観を心の中から読むことができるし思想家は思想だって書ける。建築家もこうして心の中からいろいろな思想を紡ぎ出して建築を織り上げる。そとから手に入れる思想もいったん自分の中に入れて洗浄すると自分の言葉になってでてくる。

どんどん外から思想を学ぶし、いろいろな自分の体験から見えてくるのだけれどそれを言葉に置き換えるのはそう簡単なことじゃない。新しい事態に頭にあるこれまでの概念が邪魔をして新しい言葉に置き換えられないことだってある。でも捨てるのももったいないから・・・と保存していたりする。それが新しい概念につながることもあるが死んでいくこともある。

今、「乱」と「渾沌」という2つの概念に囚われている。これまで思索してきて見つけた複数の概念をまとめてしまう力があるのだがその神髄を把握するには遠い距離がありそうである。僕は「乱の美意識」と「渾沌の思想」と言っている。
生命はこのあたりに潜んでいる気がしている。「夢蝶庵」を設計しながら辿り着いたのだけれど、もう2つ3つこの周辺を探りながら設計をしたいなと思っている。
建築は僕にとって最高の思索の手段だ。言語だけではなく作品で思想を探ることができるのは有り難いなと思う。
(写真は夢蝶庵の内部の一部)

5月 23, 2014

黒川さんの思想は「生と性」が中心にあるのだそうですね?・・・天津TVの美人キャスターがでっかいスタジオで僕に話しかけた。「え?」と聞き返す。なんとも唐突な質問から始まったからだ。かわそうとするのだが下手な通訳では上手く逃げられない。その頃、僕のメディアでの「性」に対する発言が誇張され始めていて要注意と思っていた矢先だったからだ。

中国のメディアの連中は一部を除いてちゃんと他のメディアでの僕の発言を読んできている。僕自身も成長し続けているからいつのどこでの発言かはっきりしないとその真意を思い出せない。こんなことがよく起こる。中国という国の情報は政府に相当、管理されているくせにウィチャットやウェイボーで内容は軽いのだが爆発的に発信される。誰かが「黒川さんが今、講演している」とか「こんな作品を展示している」と流すとあっという間に数百にその情報が拡大される。そこが恐ろしい。

「77歳のアイドル」はそうして造られていったのだろう。ちょっと発信する情報を間違えるととんでもないことにだってなり得るのだ。芸能界ではタレントを売り出すためには相当な情報管理をしているらしいし、今をときめく建築家やデザイナーたちは明らかに自分の情報管理を丁寧に慎重にやっている。僕はそんなこと考えたことがないのだから実に危なかったというべきだろう。多くの人たちが「黒川君はもっと意識して人生や情報をコントロールする方がいい」とアドバイスをくれたのだが「やりたいことをするのがいい」といつも自然体でやってきた。そんな僕さえ、「気をつけなくっちゃな・・」と思うほどに中国のメディアは馬鹿にできない情報力をもっている。きっと今まで通りにしか僕は生きていけないのだろうけれど・・・。

天津TVの取材はそんなわけでしばらくお蔵になっていたのだが,最近になって天津設計週のチャンスにそれが復活することになった。僕の発言を別の翻訳者に翻訳させたところ、充実した内容だったことに気付いた・・というのだ。通訳の善し悪しはとんでもない結果になることだってあるのだ。13億とか14億とかの人口を抱える中国の情報の拡大力は巨大だからいったん露出すると相当な注意を払わなくちゃならないのがちょっと面倒になっている。

僕は昔から自分の人生を「とっ散らかして生きるぞ」と言ってきた。整理などしている暇がないほどに・・という意味でもあり、理論的な整合性などいらない・・・という意味でもある。また、他人など意識しないで生きる・・という意味だって含んでいる。だから建築家なのに家具や製品のデザインまでやり教育的なことや社会運動的なことも、ウェブサイトでの活動など・・・それぞれの時代にそれぞれの生き方を重ねてきた(3回の結婚もその現れかも知れない・・・)。そして今の中国がある。77歳のアイドルはこうして生まれた(偶像を辞書で引くと、「(芸能人などの)アイドル」の他に、「崇拝する偶像」の意味や「絵空事・幻想」などの意味がある)。ちょっぴり世間に自由を奪われた感じになったがこの生き方は変えられないだろう。「とっ散らかした人生」はきっとこれからも続くだろう。

僕は「作品は物質によって書かれた理論」であり、「理論は言語で描かれた作品」であると言ってきた。また、こうも思う。「建築やデザインは物質という言語で詠った詩である」と。おそらく理論も詩なのだろう。理論だって美しくなくちゃならないのだから・・・。

すべての作品を恥ずかしげもなく外に晒してきた。それは理論だったり作品だったり人生だったりした。過ちをいっぱい含んだ理論や作品や人生はいつも次の行動の指針をくれた。そして、また過ちを繰り返すのである。理論も作品も人生もそんなものなのだろう。77歳のアイドルもいつか「落ちた偶像」になるのだろう。それでいいのだと思う。

「生と性」は確かに僕の理論と作品の根源になっている。そこに美の重要な秘密が隠されている。「死こそ究極の美」・・・と言ってきたがその裏側に「生と性こそ究極の美」という思想が隠されているのだろう。あの美人キャスターはきっとそれを見抜いていたのだろう。

(写真は天津別荘「夢蝶庵」の中庭)

5月 09, 2014

紛争ってどういうときに起こるのだろう・・・と近頃,考えている。地政学的な発想でどの地域に紛争が多いかを探し紛争の理由を探している。

1つは「民族」が他の民族と衝突する場合。これは血の問題になる。民族のアイデンティティを探るのもいいけれどそれが「愛国心」になり「独自性」を主張し始めるとかっての「大和民族」の発想や、韓国の「民族の独自性」と「愛国心」とそして「他民族の蔑視」につながる要素をもっていて危険である。中国は満州に漢民族をどんどん定住させることで満族という民族を曖昧にしてしまった。民族の血による征服である。いま、ウズベキスタンへの漢族の送り込みで同じようなことをしている。一種の民族の血族的平定だ。ユダヤ人の問題はこの民族問題である。

もう一つは「宗教」である。異なる宗教はどうしても神や思想の相違から相手を征服する傾向がある。キリスト教も魔女裁判でそれをやってきたし、一神教は他の神を許さないから対立的になる。東アジアはキリスト教とイスラム教の2つの一神教の影響が小さくて独自な自然崇拝を維持し得ている。宗教は人の心の問題なのだが、対立を生みやすい。中近東ではこれが生活の近代化を妨害している。

もう一つは「記憶」である。人は今に生きているのだが個人の生活の記憶だけではなく、記憶が「伝統」となったりもしている。ウクライナの場合、かってロシアの一部だったころのいい思い出の部分が独立を促している。

あえて言えば、もう一つ、「地理的条件」がコミュニティを形成してアイデンティティをつくり出している場合もある。日本という島国の場合には島であることがコミュニティーを閉鎖的にして固有な文化を形成するのだが他の文化との衝突が起こりやすい。グローバルになって、多様性の時代を迎えるとこの性質が障害になったりする。

日本の文化を考えていた時代から、僕自身が中国に出入りする回数が多くなることで東アジアの文化圏を考えるようになった。いろいろな地球上の国々のボーダーラインを乗り越えて文化圏で考え始めると国家とは何だろうと思い始める。国家などいらないのではないか・・・と思うようになった。特に近頃の日中韓の反目を見ると国が邪魔になる。中国人は日本人以上に親しい人がいっぱいいるのだが中国という国家の政治家たちはそうはいかない。

ところが民族、宗教、記憶、地理に多様性のある場合には衝突と反目が起こりやすいことに気付いた。ウクライナの場合にはむしろ国家という概念がばらばらにならないように人々をつないでいる。国家という概念の存在価値はあるらしいということだ。邪魔な場合もあるのだろうが、これは僕には新しい発見である。

人間は「不安におびえている」。生まれながらに底知れぬ不安のどん底にある。人間は不安だから人を愛し,友情を育て社会を構成するのだが、不安だから同時に争い,戦争をし、対立し合う。不安だから民族意識を持ち、不安だから宗教が生まれる。伝統を重んじるのも不安のせいだろう。実は創作は不安を解消するためにある。人が創造活動をするのもその不安のせいである。

結局のところ、不安が社会を混乱させ続けるのだろう。渾沌は実は生命の持つ原初的な状態なのである。荘子はそれを紀元数百年のころに指摘している。渾沌とは秩序と反対の概念だと思いがちなのだがそうではない。渾沌とは動的均衡をいい、ダイナミックな秩序のことだと僕は思っている。不安は人間の本質と関係している。不安は生命自体が初めから持っているものなのである。その永久に不安な人間が渾沌の醍醐味を享受していると考えるといい。争い憎しみあう人間の性を嫌いながらそれでも生命の本質がそこにあることを認めなくてはならないことに気付いている。

(映像は荘子の語る渾沌の物語_渾沌は生命であるとこのたとえ話で語っている)

_北に儵という皇帝がおり、南に忽という皇帝がいた。二人の皇帝は日頃から渾沌という中央にいる皇帝に世話になっていた。二人の皇帝はそのお礼に渾沌に7つの穴を空けてあげることになった。二人はこの穴を空けたのだが、最後の1つの穴を空けたとたんに渾沌は死んでしまった_こういう物語である。(7つの穴とは2つの眼と2つの耳と2つの鼻と1つの口のこと)

4月 29, 2014

近頃、自分の思想が1つの階段を上りきって踊り場に届いたかな・・・と思うようになった。日頃からのいろいろな考えが1つずつつながって大きな思想のネットワークになってきたように感じている。

丁度いま、1つの建築が完成に近づいて、その原稿を書いていて・・・書きかけのいろいろな原稿の内容が1つにつながってきた実感がある。長年、僕は自分のことをモダニストだと言ってきた。近代思想にあからさまな反旗を翻したりすこともなく、僕が学んできたその延長にいまの自分の建築が自然に生まれて来た。

それなのに、いま、僕は気づいたらモダニズムの外に立っている。立っていることに気づいたという方がいいのだろう。

僕はただ、日本人である自分の身体の中にある感覚を拾い出して「八つの日本の美意識」を書いた。それは確か10年ほど前のことである。そして5年ほど前から中国に出入りするようになり、言葉にならない中国人の求めに応じて「東アジアの美意識」をまとめた。まだ本にはなっていないのだが複数の講演会をしている。

そうして、僕の思想は自然思想にたどり着いた。19世紀までの西洋の思想はキリスト教だった。いまでもそうなのだが「神」が規範となる思想でありその思想が生活全部を含んでいた。そのヨーロッパで近代が始まる。近代思想は当然、キリスト教的土壌に生まれ、育ったのだからキリスト教的になる。絶対的な神の価値が科学的客観的価値にすり替えられる。神の普遍性は科学の普遍性にすり替えられる。その思想はまたたくまに世界を覆うようになる。近代思想はこうして世界の思想になった。

そのヨーロッパで「神は死んだ」とニーチェは叫ぶ。日本でそれを読んだ大学生の僕は「僕には初めから神は居なかったけど・・・」と怪訝に思ったりしていた。哲学者たちは神の価値を脱出して人間の価値に気づいたのだ。デモクラシーはこうして始まった。20世紀はアメリカを中心とする「人間」を価値軸とする世界を創りあげた。科学的思想にすり替えたキリスト教的思想がこの「人間軸」の思想と一つになって近代思想を形成していく。

自由と平等のデモクラシーは人間の価値を主張するのだが次第に,多くの人々が疑問を持ち始める。バック・ミンスター・フラーは「宇宙船地球号操縦マニュアル」という本を著す。1963年のことである。地球上のすべての富を地球上の人間全部に平等に分配したらすべての人類が飢えてしまう」という指摘である。圧倒的な数の貧困する人々を前提に僕たちの普通の生活があるというのだ。人は次第に人間主義の元に自然を破壊し始める。産業を優先させたからだというのだがそれは人間を優先させた結果なのだ。人間のエゴイズムが地球を破壊し自分の生活環境を生存不能にしようとしている。

アジアの自然思想はヨーロッパのキリスト教思想とイスラム教の思想から影響を受けないで温存してきた思想である。ヒマラヤ山脈とモンゴル高原とその間に広がる砂漠地帯が障壁となってこの一神教の進入を阻止し、東アジアに育まれてきた思想だった。自然を恐れ畏敬の念をもち自分の中にこそ自然があると考える思想だった。

21世紀はこのアジアに経済と文化の軸が生まれるだろう。ヨーロッパの「神の軸」の時代、アメリカの「人間の軸」の時代を経て、アジアの「自然の軸」の時代が訪れる。

こう考えてくると、自然思想は近代思想へのアンチテーゼだったことに気づき始める。ポストモダニズムを論じるつもりはないのに気づけば僕の思想はモダニズムへの反旗だった。モダニズムの客観は主観に置き換えられるべきだろう。モダニズムの普遍は特殊に、純粋性は多様性に、秩序は渾沌に置き換えられるべきである。たくさんの思い込まされた近代思想の過ちが見えてくる。

どうやら近代思想はそれが生まれたキリスト教の思想が骨組みをつくっている。キリスト教徒が80%を超えるヨーロッパとアメリカで生まれ育った思想だから当然だろう。いま、アジアの時代が来ようとしていて改めて考えるとこの「自然思想」こそ近代を超える思想になるのだろうと思う。

僕のこの数年間の心の旅路はこんなものだった。モダニズムを超えようとした多くの思索はなにも得ないで消滅していった。結論は結局、モダニズムの中にすべてはあると言うものだった。僕自身も自分の仕事をモダニズムだと考えていた。モダニズムを超えようなどと考えないことで、僕の思想はモダニズムの外に出ていた。

僕はこの自然思想を建築を通じて考え発見してきた。建築の方法で僕はこの自然思想を深化させていきたいと思う。自然思想による建築の方法がある筈である。思想を建築で探し、建築に表現して始めて,建築家の僕はその思想を体現したことになるのだろう。天津で工事中の「夢蝶庵」にその最初の試作ができる。

(満族の四合院を変形させて宇蝶庵のプランが生まれた)

4月 27, 2014

このところ、半分を中国で過ごしている。この生活はまだ3年程度で、中国に触れる年月は少ないのだが、中国にいると日本にいる時のようにスタジオや家に閉じこもっていることはない。ほとんど毎日誰かと会い,誰かと仕事をしている。だから短時間なのだが中国の全体が見えてくる。

人間は実に上手くできていていろいろある癖は他の状況と緊密に関係している。1つのことだけを取り上げて批判したりすることは本当に怖いな・・・と思う。そのいくつかの例を取り上げてみよう。

こんなことここで取り上げていいかちょっと悩むのだが、今回のデザインコンペの審査会は中国の2つの大学の学長とフィンランドのデザイナー、ハッリ・コスキネンと僕の四人だったのだが、僕たち二人と中国の二人の審査員の間で大激論になった。高得点だった十数点の作品の中から金賞、銀賞、銅賞を選ぶのだが簡単ではない。それも価値感の相違というより事情の相違が激論を生むことになったのである。最高点だった作品に一人の学長が反対を唱えて譲らない。理由ははっきりはしないのだが、自分の大学の教員の作品らしく、個人的理由でその案を金賞にしたくないというのだ。僕はフェアーじゃないと激怒する。理由を問うても言葉を濁してしまう。最後には審査委員長の僕に任すというので金賞になった。銀賞は2つなのだがこの2つがまた決まらない。ビジュアルデザイナーなのだがある大学のもう一人の学長がどうしても10位にも入っていない案を銀賞にしたいといいだすのだ。理由は自分の大学の学生の作品だから・・・とはっきりしている。2時間のやりとりの後に結局主催国の事情に配慮して僕が折れた。あきれてしまうのだが中国はこんな風に金賞が決まり、銀賞が決まる。コネクションがなければ中国社会では生きていけない。政府とのコネクションだけではなく、こうして学長とのコネクションがなければ浮かばれないのだ。

僕は中国社会のネットワーク力をすばらしいことだと思ってきた。同級生や同じ大学の友人と組んでお金を出し合い事業をどんどん広げていく。だから事業の形もある会社には投資していて、自分の会社には投資を求めて複数の企業がネットワークを組んで多様な企業の総合体になっている。これは国家的規模の巨大企業でも政府も投資してこのようなネットワーク企業をつくっている。

そのコネクションがこのような形でデザインコンペの審査の場面にまで顔を出すのである。

そもそも、中国は計画がいい加減だ。建築設計の場面では資料となる既存の建物の図面を要求しても保存してないことがざらである。送られてきたとしても図面は間違いだらけである。こちらで描いた設計図もよく読まないで適当に変更して工事する。計画より現場で上手に納めればいいと考えているらしい。実行力は凄い。信じられない期間であっという間に完成させる。ものすごい現場力だ。計画力より現場力・・・これが中国なのだ。がんがん実行だけが繰り返されるから気づくと現実に建っている建物の図面が保存されていないことになる。

そもそもこのコンペは昨年12月に僕が提案して要項の案をつくり年内に募集をする計画だった。審査員が決まらないだけではなく、募集の開始がどんどんずれ込んでいく。ついに2月の末になってしまった。後で分かったのだが政府の許可が降りるのに時間がかかるのだという。何事にも政府の許可である。当然、応募数が増えない・・・一ヶ月後の締め切りでは設計している時間がない。このコンペは失敗だったか・・・と頭を抱えていた。

審査会のある前日になって千案を超える応募があったというのでびっくりした。精細な図面がたくさん集まっている。こんどは審査は二日間じゃできそうにない。理由を聞いてびっくりした。ここでも政府が動いている。政府が各大学に応募を命じていたのだ大学は学生を動員して取りまとめて提案しているらしい。自由な学生の判断での応募じゃなかったのだ。そのことと関係して、審査の段階でも学校側の意見が重視されることになる。コネクションで応募が増え、コネクションで審査結果に影響を与える。

中国人はお金を払うことを嫌う。お金にこだわる。これだけ聴くと拝金主義だと思うのだろうが,そうではない。中国人は未来に深い不安を持っている。頼りにできるのはお金だけだと思っているらしい。日本のように能力があれば未来がある・・・という訳にいかないのだ。コネクションのためにリベートを支払い,そのためにお金を貯蓄する。金がないとコネクションが作れないし生かせないからである。

中国人は税金の支払いを極度にいやがる。僕は当然のことだから中国サイドで税金を徴収してくれというのだが支払う側でも税がかかるらしい。ビジネスではない講演会だったかのように支払いたいらしい。中国人は自分の国を自分たちがつくっていると思っていない。突然、政府がいろいろなことを決めて通達してくる。子供は一人だけつくれる・・・などというどんでもない政策も政府が決めて一方的に通達してくる。市民はそれに従うだけである。「国に政策あれば、国民に対策あり」というそうである。

このような感覚で国を愛することは不可能だろう。自分を守るのはお金と家族だけということになる。国をつくるために税金を支払おうという思いは欠片も生まれない。反日だって政府の政策だからそれに従っているだけのことである。昔から中国はいろいろな民族の侵入を経験してきた。その都度、中国人は時に南に逃げ、時に防御性の高い建築を創り上げて自分の命を守ろうとしては来た。しかし、結局のところ大きな力には反抗せず従うことで生き延び,「耐える」という強靱な精神力をつくってきたのだろう。

中国は渾沌の文化だと僕は考えている。多様性の文化といってもいい。渾沌も多様性も1つの文化が他の文化と融合してできる文化という意味ではない。渾沌も多様性も固有な多様な文化が融合することなく共存することを意味している。大陸の中国ならではの文化と言えよう。島国の日本は他の文化に占領されることもなく、閉鎖政策を敷かなくても文化は純粋性をもったものに醸成されていく。日本人は多様性にも渾沌にもなじめない文化と人間性をつくりあげている。

さあ、これからの時代には多くの外国人と共に過ごすことになるだろう。いつまでもクールジャパンなどと文化の純粋性を売り物にしていては未来の日本はない。

日本人の特質は日本のこの様々な状況と今日までの歴史が創りあげている。中国人の特質もそれと同じ理由で出来上がっている。僕が初めから「中国人が好きだ」ときめてから中国通いを始めたことは正しかったと思う。自分と違うから否定するのではなく、一呼吸置いて全体から中国人を受け止めていくことで理解が深まっていく。

一面だけで判断をしないでおこう。拝金主義と簡単に否定的に見ることを止めよう。それぞれに置かれた状況があることを理解しよう。そして我々自身、多様な社会で育ち、多様な生い立ちを経験したのだが、その上に、民族的な相違や宗教的な相違をもった人々と共生することになる。多様性のなかで共存する力を身につけていくべきだろう。

そもそも、生物は多様性の環境で健全な生命力を育てる。そもそも生命それ自体が渾沌なのである。僕は建築や都市やプロダクトで渾沌を描いていきたいとさえ思っている。

(写真は北京、751の一角_アートギャラリーがたくさんある。工場の残骸と自然の蔦と現代の自動車と人間の痕跡が調和している)

3月 06, 2014

巨艦、中国を運転することは容易なことじゃないだろうな。共産党というたった一つの組織がすべてを考えてハンドルを右に左に切っているんだから大変なことである。ハンドルだって巨艦なら簡単には曲がらない。ブレーキだってアクセルだってゆっくりと効き始めることになる。でも現代はすべてがスピードの時代だ・・・。間に合うかな?

タイタニック号だって、氷山を発見しても結局、お腹をこすって沈没することになる。一党支配というけれど、一つの組織だけで・・・しかもその頂上にはたった一人の国家主席、習近平さんが目を配って艦長をしているようなものである。これは大変なことである。もっとたくさんの人の野生的本能を利用したらいいのに・・・と思う。

巨大な国家だから意思を隅々まで届かせるためにはどうしても大声でプロパガンダを叫ぶことになる。中国には至る所に赤い文字でプロパガンダが掲げられている。それも内容はシンプルだ。万人に通じる言葉だから簡単にしなくちゃならない。

政策もシンプルになる。政治家の腐敗をなくすためには高級なレストランに行くなとか高額な贈り物をするなと声高に、具体的に唱える。気づいたら中国の高級ホテルや高級レストランは大打撃を受けて姿をけし、高額ギフト商品を扱う店も閑古鳥が鳴くことになる。大気汚染が国民の不満になると工場を爆破してみせる。汚職を発見すると見せしめに絞首刑にする。分かりやすい方法を用いないと意思が伝わらないのだ。

そして、最近、この三月から北京の外のナンバーを持つ車は早朝6時から9時までは市内には入れない、と決めた。市民は戦々恐々なのだが政府は知ったことじゃない。荒っぽい方法で、分かりやすい方法で国民に大声で命じる。国民は「上に政策あれば下に対策あり」といって不満は言わず対策を講ずる。

反日だってそうだ。巨大な国を治めるためには「国土問題には一切妥協しない」とか「釣魚島は中国のものだ」といい「この範囲は中国の領土だ」とシンプルに表現する。要するにプロパガンダとおなじである。

僕は別に中国を非難などしてはいない。そうしないと巨大な国、中国は共産党一党だけで、習近平さん一人だけで運転できないのだ。アメリカを初めとする民主主義国家は「自発性」という武器がある。放置しておいても国民が自発的に工夫して社会が動いていく。政治はその動きを利用してある意味では柔道の「空気投げ」のように市民の力を利用して運転すればいい。巨大なエンジンじゃなく、小さいエンジンが繋がって大きな力を発揮する。デモクラシーの政治は巨大電算機ではなく、クラウドコンピューティングのようなものだ。

中国の一党支配は中華思想にまで繋がる中国的構造でもある。中華思想とは中国が一番優れていて他の国はそれに従属する国になるという思想である。言い方を変えればそうすることで彼らはまたまた自分で巨大な世界を運転しなくちゃならなくなる。政治の意味が民主国家と異なっているのだ。 まさにお疲れさまなのだ。情報化されてからの絶対的権力が短命なのはそのためなのだ。僕は中国を「共産党王朝」といっているのだが、それはこのことである。

中国の地方政府を訪ねたことがある。会議室で重々しく「黒川雅之氏の訪問を歓迎する・・・」と挨拶され長々と演説するのだが、そのすべてがあらかじめ書かれた原稿を読んでいる。そして、それを取り巻く部下たちが等しく、同じノートにその挨拶をメモしている。一種のセレモニーなのだろう。これもこの巨大な中心を持つ組織構造の末端までの命令の流れを表しているのだろう。

船長さん。お疲れさまです。民主化とはみんなが考えて組織を運営することなんです。一人では疲れますからみんなに考えることを任せてはどうでしょう?市民を信じると、彼らは自分で自分たちの未来を考え始めてあなたはその多くの市民の行動を上手にマネージメントすればいいことになるのです。そう教えてあげたいな・・と思う。

組織には「ツリー型」と「ネットワーク型」がある。絶対権力はツリー型で民主主義の組織はネットワーク型である。ツリー型は「事あるとき」には力を発揮するが「日常的」にはネットワーク型がいい。軍隊はツリー型であり中国は軍事的国家ということもできる。だから恐ろしい。

昔、「アルジェの戦い」という映画を見たのだがそのゲリラ組織が面白い。すべてのメンバーは上に「自分に命令する一人」がいて、下に二人の「命令を伝える部下」がいる。その集まりはツリー型で命令は伝わりやすいのだが官憲がゲリラ一人を逮捕して拷問にかけても上の一人と下の二人しか吐かせることができない。組織は簡単には壊れないし、最上部のリーダーは安全である。

組織はその時代と目的によって選択される。中国は「既得の権利を守る組織」になっている。或いは「無知な国民をまとめる組織」として有効である。それが次第に問題になってきたのである。「多くの汚職」が目立つようになった。内緒にしたい既得権が国民の目にさらされている。情報革命で無知だった国民が「知識」を手に入れ、知的に成長したのである。当然、ツリー型が続きにくいことになる。自然に「民主化」が進行することになる。習近平さんの苦悩はここにある。

その時代の流れを無視すると限界が来る。フェースブックを遮断してもウェイチャットがある。不満はばっと全国に広がる。国民の不満が爆発する前に汚職を処罰し、不良な工場を爆破し、役人の贅沢を禁止するしかない。

中国の大きな変化はそう遠いことではないだろう。世界経済の安定的成長のためにも「革命」ではなく、習近平さんの自発的「民主化」を強く願っている。

人間は本質的に「不安」をもって生きている動物で或る。不安だから芸術が生まれ、宗教が生まれ、不安だから人と人は愛し合い、時に争い、戦争も起こる。世界の各地で戦争が絶えないのは人間の本質と関係がある。だから戦争はなくならないのだ・・・宗教か芸術の力でそれを止めたいと思うのだが・・・。

 

2月 20, 2014

東京二期会のオペラを観てきた。 ジュゼッペ・ウェルディの「Don Carlo」である。オペラ劇場ではない東京文化会館大ホールだからオペラの醍醐味はだいぶ薄いのだが会場は満席で大盛会であった。

ドン・カルロに限らないのだがオペラからは「神と愛」の重圧に押しつぶされそうなヨーロッパ人が見えてくる。僕が大学生のころだからまだ10代後半か20代になったばかりだったのだが、東京大学の当時、名誉教授だった浅田孝さんがこう僕に語ってくれた。「雅之君、ヨーロッパ文化はキリスト教を理解しなくては分からないよ」と言うのである。100%キリスト教文化だというのである。オペラを観ているとその言葉を思い出す。

王も神に与えられた立場である。だから教会には頭が上がらない。王の后の昔の許嫁に対する恋心は神への罪の意識で苦しみに変わる。愛はどこまでも奉仕的で美しいのだが現実離れに感じるのは日本人だからか・・・。罪と愛の重さに押しつぶされて死を選ぶ場合も死後の世界は神の世界であったりするのだ。

大学生のころ、ニーチェだのサルトルだのに夢中になっていた頃、「神は死んだ」と絞り出すように書かれているニーチェの言葉が不思議だった。初めから僕たちには神はいなかったのだから当然である。神に人間の無力さを指摘されながら守られていたのに「神が死ぬ」ことで突然、不安におののくことになるのらしい。僕たちにとって人間は初めから不安な存在だったのだが、西洋人は神を捨ててはじめてその不安を知ることになる。

キリスト教は実に壮大な「仮説」だったのだと思う。この壮大な仮説を理論化するために哲学が育ったのだし、その仮説を広めるために世界一のベストセラーである聖書がつくられた。その聖書に1行、「ユダヤ人はキリストの死を否定しなかった」と書かれているだけでその後のユダヤ人の悲惨な運命が始まったのだそうである。なんと恐ろしいことだろう。

それにしても壮大にして華麗な仮説だった。建築から音楽から絵画から、生活の隅々まで呑み込んでしまったキリスト教の文化はオペラを観ても華麗で壮大である。初めてヨーロッパの旅をして美術館を観歩き、血みどろな絵画に驚いたのだが、キリスト教の物語は血だらけである。国家間の民族闘争もその血を生み出したのだが、キリスト教を布教する時の魔女狩りなどの血みどろの歴史も今のキリスト教文明を創り上げた影の物語である。狩猟民族で都市国家間の闘争がありそこにキリスト教の布教がこのような血を呼ぶのだろう。

あの感動的なオーケストラの音楽の背後にも見えないのだがきっと血のにほいがしみこんでいるのだろう。オペラは血だらけだった。美しい愛の苦悩にもどうしても血のにほいがする。

ほんとうに日本人は愛を信じるのか?愛を語れるのか?キリスト教の国での愛にはその背後に神への愛が見える。奉仕的で見返りのない愛。日本人にこの愛を本当に知っている人はいないだろうと思う。近代はヨーロッパで始まった。近代思想はこのキリスト教の思想を継承せざるをえなかったのである。こうして近代思想も近代建築・デザインもキリスト教的になり、禁欲的になった。まるでキリスト教がヨーロッパを、世界を支配して土着宗教を抹殺しつくしたように、近代思想は世界の個性的な文化を一色に染め抜いてしまった。

そして、神の価値観を科学技術の価値観にすり替えて、絶対的なものとして近代の価値はつくられていった。人々はその言葉の歴史の深い意味を知らないで「愛している」と言っている。君はほんとうに愛を知っているのか?そう問いたいと思う。ドン・カルロを観てフットそのことを考えた。

(写真は東京二期会の舞台ではない)

2月 18, 2014

まだまだ中国への誤解が多い。TVや新聞ではどうしても政治や事件しか扱わないから鳥インフルエンザがあれば中国中が危険に見えるし反日デモがあれば中国中、反日感情が吹き荒れているように見える。メディアは相当注意して報道しないとネガティブな感情をどんどん広めてしてしまう。

そこで、僕の回りの具体的な人間像を語ってみることにしたい。

Rさんという人物がいる。今回の旅はその関係の旅だった。彼は40代の恰幅のいい甘いマスクの好漢である。会社は沢山あるからどれが本拠地か分からないのだが医療器具の輸入会社が中心らしい。デザイン会社や工事会社を持っていて、出版をしたりギャラリーを持ったり・・・と文化事業にも手を出している。文化活動というべきかも知れない。

なにせ今回のプロジェクト、天津国際設計週(デザインウィーク)は今年は政府の予算が付かないので彼の私費で開催しようというのだから並のお金持ちじゃない。でも卒業は天津芸術大学。アーティストでもある。

そんな彼が僕を大切にしてくれている。彼のお父さんと僕が同年だというのだ。丑年・・・。父のように思えて・・・と僕の本を読んで作品を知って、その年齢を知ってから特別な態度で接してくれる。車のドアの開閉、エントランス、トイレのドアの開閉まで手を貸してくれる。階段では腕を取って注意を払う・・・。

中国人は家族を大切にする民族である。春節などのいろいろな節では全員、家に戻り、親戚を集めて心を温めあう。稼いだお金から数十万円に相当する金額の元を父や母にプレゼントしたりもする。ある友人はマックを従姉妹にプレゼントしていた。お金を支払うのが大嫌いでなかなか払ってくれないという反面、気に入った人や親族には気前がいい。要するにお金を大切にしているだけである。上海の名園の踏み石がお金の形だったり、ビルがお金の形をしているのは守銭奴というより金の価値を大切にし、平気で表現しているだけのことである。日本人はその大切さをしりながらどこかでお金を汚れたものと思っているきらいがある。でも彼らはお金をてらいなく大切に思っているのだ。

彼と天津で会食する。チェロ奏者で音楽大学で教鞭をとる奥さんと4歳半の男の子と彼と僕のマネージャーと5人での会食だった。育ち盛りだが作法をちゃんと守る少年。そういえばお父さんの彼は食卓に肘をついたりしない。帰りにはレストランの階段を降りるのに4歳半の息子が僕の手を引いてくれた。父を真似たのか父の指示に応じたのかは分からない。

彼は政治家ではないのだが天津の人民大会ではひな壇に並ぶ。毎日のように区長が何人も訪れて都市開発などの仕事の相談をしている。天津は昨年、上海を抜いて一番経済活動が発展した都市だった。巨大なショッピングモールができ都市づくりがすすんでいる。

広州にショッピングモールをもつ富裕族ファミリーの長男が友人にいるのだがその彼と違って英語も話せない。人間性豊かで全身で気持ちを表現しようとしているように見える。

中国との国の関係はぎくしゃくしているのだが、日本人と中国人の一人ひとりの感情は彼に限らずすばらしい交流ができている。もう一人の北京の中国人の社長はこういう。「日本に来たら中国人は全員、日本が大好きになるよ。だから心配ない・・・」と。政治って何だろう?国ってなんだろう?ふっと思う。国を愛する・・と考えたら日本人も中国人もとたんに尖閣列島は自分のものだと対立的感情になる。もう少し、皮膚感覚で中国と日本が感じあうことが大切なのだろう。新聞もTVも皮膚感覚を伝えることができない。

もっともっと訪問し合うことが大切なのだろう。頭ではなく野生的な感覚で人は人と触れあうことが必要なのだろう。

(写真は清水寺でのRさん。身体を縮めて僕より大きく写らないように注意しているのが分かる。そんな気遣いをする男だ)