5月 29, 2011

被災した石巻市の先に牡鹿半島がある。小さい村が小さく入り組んだ入り江に点在していて、救助が遅れた地域である。その牡鹿半島の先端に金華山のある島(名前は知らない)と網地島がある。

今回の津波でこの網地島の被害が少なかったという。

津波は地形によって様々な挙動をしている。狭くなる地形では波が増幅されて被害が多かったし、川があることでそれを伝って奥まで津波が到達した例もある。

網地島の被害が少なかったのはその島の地形と方位に関係しているらしい。細長く、しかも津波が押し押せる方向に尖っている。まるで船のように島が津波を切り裂いて津波を受け流したのだろう。

津波の方向はもう分かっているのだから、陸に建てる避難所は船のように先の尖った建築がいい。網地島のように津波の猛威をまともに受けず、切り裂いて受け流すことが出来る。

波を切って走る船のようにではなく、停止した建築を波の方が走るのだが、建築は津波を風に柳と受け流すことになる。

地下の待避所とは別にこんな避難所の構想もできる。

5月 29, 2011

家や街は壊れても命は失わない。そんな家や街を構想しよう。

もちろん先ずは壊れない家と街の建設であるし、壊れても修理しやすい家や街もいい。耐久性のある家は壊れ難いが壊し難くもある。木造は改装し易いがコンクリートは改装し難いのが一般的である。

壊れても命は失わない木造建築の工夫もしたい。壊れ難いコンクリート造なのに改装しやすい建築だって工夫できる。江戸時代の街や家は大火に焼かれてもすぐに再生された。多くの人の命は失われたのだが決して耐火建築に建て替えたりはしなかった。燃えたら建て直す、燃え易い街で、美しく過ごしていたのである。それも一つの選択だろう。

 

壊れても命を失われない家。強固にするのではなく、適当に揺れ、適当に壊れながらそれでも命を失う程には壊れ尽くさない家。たとえ壊れても懲りない人間の努力が再生させる街。自然と共存する街を僕はイメージしている。

人間はいつか死ぬ。いつまでも生きていたら若い命は生まれない。人間は遺伝子を運び、遺伝子を次の世代に伝えたら死ぬのが当然なように家も文化を伝えたら壊れてもいい。哀しいけれど人は老い、人は死ぬように、哀しいけれど家も古び、壊れるからいい。

命だけ守りながら壊れるのがいい。保険で再生しながら新しい時代の新しい街をつくって行くのがいい。

そのためには避難スペースの準備だろう。100年に一回しかないかも知れない津波に投資してもいい避難方法の工夫である。

 

「待避のための地下室」を提案したい。

普通は津波には高台に逃げる。しかし、上に逃げる発想には限りがない。三階に準備された避難所に逃げて死んだ人々がいる。次は何mの津波となるか予想などできない。高いところに逃げるという発想の最大の難点はこの「安全な高さの限界がない」ことと、「老人や幼児や身障者」には向かないということである。高いところには逃げ難い。津波はどの高さまで逃げれば安全かという限界が見えない。

地面は海面下から少しずつ浅くなってついに海面の外にでる地形をしている。一部の人工的な突然深くなる港などでも防波堤のように独立して立っているのではないから壊れ難い。湾も次第に狭まるのが普通である。だから津波をどんどん絞られて高くなり、30mにも40mにもなってしまう。

地面の下には津波はこない。波は地表を這うように駆け上って行くだけである。そして、地面はどの家の下にもある。どの家からも瞬時に避難できるのが地下室である。アメリカのハリケーンの多い地方では地下室に避難する。津波も地下室は襲わない。

一部には70センチほどの地盤沈下もあったし、地盤が7mも移動したりしている。それでも津波は襲って最後には大海に逃げて行く。

津波は河川の氾濫にようには長居しない。去って行く。通り過ぎるのを待てばいい。まさに待避所である。

地震も地下はさほど揺れない。

数十分でも水が入らない地下室をつくればいい。もちろん1mや2mの浸水には耐えるだけではなく、脱出できる工夫も居るだろう。2〜3日の酸素や食料の保存も必要だろうし、通信施設も大切だろう。

地下室のいいのは日常的に使えることだ。ワインセラーや音楽室や図書室もいい。工場では従業員のちょっとした休憩所にしたり、倉庫も程度を超えなければいい。

その上、直ぐに避難できる。下に逃げるのだから一工夫すれば身障者や老人にも問題はない。上を津波が駆け抜ける・・・という不安だけが残るのだが・・・。

家ごとの地下室もいいし、地域でつくる協同の地下室もいい。隣の地下室とつないでまるで蟻の巣のように地下都市が出来るかもしれない。地下室の深さになれば地盤だって安定している。天井高2.5 mとして構造も入れて3mとなればちょっとした埋め立て地だってしっかりした基礎ができる。

 

上に逃げるのではなく、下に逃げる、「逆転の発想」である。

5月 29, 2011

新しい街は当然、再び地震や津波に被災しない街を考えることになる。どうしても「被災しない街」,「再び、命を失わない街」を構想することになる。それは当然である。

その街は「自然の力を侮らない街」になるだろう。自然に対して何が何でも対抗する街ではない。自然の一部である人間が、自然の猛威に曝されて生きていることは誰でも承知している筈である。

なぜ、樹木が台風でも簡単には倒れないかは樹木が風になびいて抵抗しないからである。なびいても根こそぎ倒れたり、枝が折れたりするのは、それも自然への従順さの一つのかたちである。枝を差し出して樹木の本体を救っているのだし、樹木が倒れる事で森を守っているのである。

 

自然は偉大であり、対抗してはいけないという日本人の本来の自然への姿勢を思い出す事である。

 

そこから発想すると、新しい街は地震にも津波にも弄ばれる街がいいことになる。地震に壊され津波に流される街がいいことになる。壊され流されても人の死なない街でなくてはならない。

絶対に壊れない家でできた街、絶対に津波に打ち勝つ街をつくろうと思うな!・・・と僕は言いたい。地震恐怖症と津波恐怖症に陥った街づくりをしてはならない。鳴く鳥の美しさ、夕暮れの感動、そよ風の気持ちよさ・・・それも自然である。人間は勝手に自分を傷つける自然を嫌がっている。人を射す猛毒をもった虫も気持ちの悪い蛇も自然である。その自然のなかで人はどう生きるべきかを考えたい。

 

アメリカのインデアンの長老が「今日は死ぬのにもってこいの日だ」と言ったそうである。長老はまた「あの樹木もあの石ころも、あそこに居る若者も今、何を考えているか自分には分かる」という、「それらはみんな昔、自分と一つだったから・・・」分かるのだと言う。

インデアンに限らない。人間が自然を自分と一つとして考えていた時代には当たり前のことだった。自分だけ、人間だけが別だなどと考えて自然を加工し、原子力発電をつくり・・・不遜になっている。

 

もう一度言おう。僕がいま、構想している街づくりは台風や地震や津波に堪えるものでありたいと努めながら最後には流されることも視野にいれる街づくりである。これまでの夫々の敷地に夫々の家を再建し、それでは当然、津波に再び流される街をつくる構想である。

巨大な防波堤をつくらない。美しい港町を破壊する巨大な防波堤はつくらない。強固過ぎる家はつくらない。

 

そのかわり、いろいろな工夫をしたい。津波に流されるチャンスは多分100年は先だろう。たとえそれが数十年先だとしても数年じゃない。だから巨額のお金を使い、どこまで大きくしても決して安全とは思えない「防波堤」はつくらない。30mの津波でも壊れない防波堤をイメージできない。風景は無茶苦茶になるだろう。巨額なお金が掛かるだけではない、その周辺の生態系を壊し、風や海の流れを変え、人々の心さえも破壊するだろう。

 

防波堤にお金をつぎ込むより、そのお金で「保険」に掛ければいい。街の再生と家の再生が可能な保険をを創設し、その保険で再生が可能にすればいい。流されても壊れても作り替えるだけの金額が補償される保険をつくればいい。変わらない人間・・・と僕はいつも思う。どんなに科学技術が進歩しようと人は変わらない。その「変わらない人間」が「懲りない人間」になればいい。壊されても再生する人間になればいい。

そして、家は壊れ流されても命はなくならない街や家をつくればいい。それなら可能だ。風に柳と自然の猛威を受け流せばいい。そのための知恵を探そう。

5月 29, 2011

被災地の再生を考え続けている。

この2ヶ月間、僕も被災者だったという実感がある。つい最近まで暫く創作をしていなかったことに気付いた。

ばたばたと忙しくしていたのに・・・いろいろな創作的な仕事がストップしている事に気付いた。これでは駄目だ・・・いまこそ活力をもって日常を取り戻さないいけない。

 

再生の知恵・・・いろいろ考えている。街づくりには二面性がある。一つはソフトな街、要するに住む人々のコミュニティーづくり。もう一つはハードな街、家や道路やインフラの建設である。どっちから入ってもお互いに影響を与える。新しい街をこれまでのコミュニティーを無視して,むしろこれから生まれるべきコミュニティー形成を誘導するようにつくる事も出来るし、これまでのコミュニティーをそっと生かしながら新しい街、コミュニティーの器である街をつくる事も出来る。

この二つの考え方で街づくりに大きな分かれ目ができる。

こんな災害での破壊の場合はどうするのが正しいか、美しいかを考えるべきである。こんなチャンスだから思いっきり新しい街をつくるべきだ・・・新しいコミュニティーを誘導するべきだという考え方を僕は否定したい。こんな悲惨なコミュニティー破壊の後だから、つながりが家族のつながりも街のつながりも壊れてしまったのだからこそ、復旧を先ず目指してあげたい。

被災した後に人々は何を思ったか・・・家族を心配し、街の仲間を心配した筈である。この思いを大切にしたい。人は人によって生かされている。ここでは新しい人間関係をつくるなど、部外者の勝手な思いである。

もう一つの理由は街はその人の目線から描くべきだという事である。建築家や行政や都市づくりの専門化が果たして正しいコミュニティーを描けるかと言うとそれはあり得ない。本質的に人間は自分の皮膚感覚で人とつながるからだ。

それに、正しいコミュニティーというものはそもそもないと思っている。美しいコミュニティーだけがあり、その美しさは街の人々がつくりあげて行く以外にはあり得ない。

 

結論を言おう。被災者は夫々のこれまで住んできた心象風景を再現するのがいい。その場所から何が見えるかを思い出してそのままに再現するといい。当然、全くの再現は不可能だし人間の常としてその再現の行動の中で新しい工夫をするだろう。これまでの問題点を改善もしようとするだろう。大切なのは「これまで住んでいた家の敷地から夫々の人が自分の家を描き始める」ことである。

隣と調整し合い、話し合って夫々の住民の身体感覚で、小さな諍いや議論を経て、街をつくる事だろう。頭越しに計画せず、自発的な街づくりを為政者は誘導する事である。

これが街再生、コミュニティー再生の最初の知恵である。復旧の筈が、気付いたら復興になっていたと思うような復興でなくてはならない。街の継続性である。コミュニティーの継続性を主張したい。

フランク・ロイド・ライトは「その土地に植物が生えるように家をつくらねばならない」という。街はそこに生えるように生まれ成長して行くのでなくてはならない。

5月 13, 2011

人は変わらない。人は何億年もの以前から大切にDNAを守り伝えて来た。人は変わらない。人は懲りない。どんなに世界がデジタル化しようとも、どんなに世界がグローバルになろうとも人は変わらない。

 

僕はここで育った・・・この事実は曲げられない。この土地から生えて来た、まるで樹木のようなのが僕なのだ。だからいい加減な新しい土地に移植されては困る。人はその土地に根付いている。これを忘れてはならない。

 

被災した人々の家はそれのあった場所につくるべきだ。性懲りもなく同じところに家をつくるべきだ。人は変わらないし、懲りない。とんでもない力を発揮して流された家の場所に性懲りもなくまた家をつくる。これが当然の生き物の原理である。

 

きっとその家はいつかまた流されるであろう。自然は強烈である。膨大な資金を投入して防波堤をつくっても津波はまた街を呑み込むだろう。そう、人は自然に翻弄される。それが当然な姿なのだ。

それでも家はその場所につくるべきである。

 

江戸の人々が大火にあっても何度でも同じ街をつくったように、東北の人々は負けてはならない。自然に負けるけれど、生き物として負けてはいない。同じように馬鹿のようにそこに家をつくる。

 

でも・・・大切な事は、街は壊れても人は生き続けるべきだということだ。新しい古い街では、人は一人として死なせてはならない。家は流され、街は消えても人は全員、生き残っていなくてはならない。そんな避難の仕組み,街の仕組みを準備することになる。

 

防波堤をつくる費用で保険を掛ければいい。流されては作り替える根性と知的な配慮である。20m、30mの津波を防ぐ防波堤は天文学的数字の資金が必要だろう。そのお金をつかって再建のための保険契約をすればいい。保険も一つの防波堤である。

 

山に住んで港の職場に通勤する案とか津波より高い人工大地をつくってそこに新しい家を建てる案がある。どれも間違った提案である。人の心を無視している。街づくりも家づくりも、人々の未来の描き方は「そこから見える未来」を描くことである。今の先に未来があるのではない。未来は今の中に希望や夢としてある。そんな未来を現実の街に定着させたい。人々の想いは「ここから始まる」ことを忘れてはならない。

 

敷地を全部、まっさらにして新しい街を計画するという愚行をしてはならない。新しい街のイメージは住民の心の中にある。その青写真は自分の住んで来た家の敷地から始まる。自分の生きて来た街の土地から始まる。

 

被災地の避難所で沢山の人々が段ボール箱や布団で自分の仮の家を体育館の中につくっていた。自分の身体から発想した、「まるで自分の巣作り」のようにつくった自分のコーナーである。その延長に新しい街のイメージを探るべきである。神の目線からの街づくりを止めるべきである。まるで巣作りのように街が出来て行くように仕向け,建築家や政治家はマネージャーとして街づくりを手伝うべきである。

 

家とは人間の巣箱である。建築家は夫々の巣作りのアドバイザーであり、助っ人である事を忘れてはならない。

 

先ず、瓦礫を取り除いて夫々の家の土地を明確にし直す事である。そこに避難のための公共建築や避難のルートを定めて、残りを夫々の人が取引をする。そこに建てたい人は建てればいい。売りたい人は隣の人に売ればいい。人々はまるで集落が出来て行く仕組みのようにお互いに気遣いして自分の家を建てる。隣の人の家の窓の前は空けておこうとか風景を遮ること、太陽を遮る事を気遣いで避けて建てる。まるで群衆が上手に人を避けて歩くように、人がぶつかる事はないように、家も優れたダイナミックな調和を保つ街を形成して行く。

 

争いが起これば調整役がでるだろう。マネージャーはいろいろなアドバイスをするだろう。

 

材料を協同購入したりするのもいい。人の使っている素材を見つけて真似るものいいだろう。世界からこぞって建材の売り込み市ができるのも楽しい。

 

頭ごなしの計画はやめよう。

土地を政府が買い占めて再分配も止めよう。

大型の集合住宅を建てて住民を放り込むのも止めよう。

街づくりはその街の住民に任せよう。家づくりと街づくりを通じてその街の人々は議論をし、諍いを調整しながら素晴らしい経験をする。街づくりの経験をするのだ。ここから街の生活が始まれば素晴らしいコミュニティーが生まれるだろう。街をつくることで街の運営のノウハウが生まれてくる。

 

そのチャンスを政府も行政も建築家も奪うべきではない。

原発の事故も本当は市民に政府はこう問いかけるべきだった。「原発事故によって放射能が危険は量,排出して。みなさんはこの事態にどうしたらいいと思いますか?」必要な資料を提供して彼ら自身が自分の意志で避難を決めるべきだった。

でも行政も政府も避難を命じ、エリアへの立ち入りを禁止した。

もう初めから人々は自分の人生を自分の街づくりの意志を奪われていた。

 

あたらしい街づくりではこれを繰り返してはいけない。自分たちで自分の街や自分の人生を考える経験を奪っては行けない。

 

ボランティアの本当の意味を知っていますか?

ボランティアとはVOLUNTEERであり、VOLUNARY とは「自発的な」という意味である。VOLUNTARY SPIRIT は自発的精神を言っている。

 

アメリカ人は自分で自分の命を守るために銃を所持している。アメリカ人がボランティア活動を盛んに行うのは「自分で街を守り、自分で世界をつくる」ことを目指しての事なのだ。日本人は犯罪を取り締まるのは警察でありお役所だと思っている。

 

街づくりは自分の街だから自分でつくる権利を住民も放棄してはならない。これからの日本はますます自分で生きることを求められるだろう。発電だって自分の力で電気をつくる意識を持つ必要がでてくる。街が汚れていたら役所に電話をするのではなく、自分できれいにする。

 

被災地にボランティアが集まったけれど,本当は住民が自発的にボランティアをはじめるべきだった。それを外の人たちが助ける。瓦礫を片付ける仕事は自分たちでする。政府は彼らにその仕事を与えて支援金からD給料を支払うのがいい。人間の生活とは食事をして寝る事だけではない、その上に仕事をして社会と関わり合う事も生活の基本である。その最初の仕事を政府は被災者に与えるべきだった。自分できれいにした自分の町に自分たちの意志で街をつくっていく。そのための資金や労働の対価として支援金を使うべきだったと思う。支援金はあげる事ではなく、直ぐに始まった「瓦礫の整理や建設の仕事の対価」として使うべきだったと思う。

 

本当は、被災の直後から再建の街づくり、生活づくりが始まっていた。そのチャンスを奪ったのだ。被災者は同情され、保護されてそのために支援金が使われて来た。

 

すでに大きな間違いが始まってしまっている。

多くを学ぶチャンスがこの震災とその後の出来事の中にある。

 

新しい街はこんな形になるだろう。自然への謙虚さと知的な対策を持つ、人の心に従って昔からの土地に根づく街である。

 

人々は同じ場所に、同じように家を建て、避難のための高台に向かう広い道路と緊急避難のための避難所を建設する事になるだろう。その建物は公共施設にするといい。津波のなかで津波の力に対抗することなく、受け流す舟のような建築がいい。津波の方向はもう分かっている。だから津波が襲ってもその流れを柳に風と受け流す建築にすればいい。

 

津波の力に破壊されない方法は「流される」か「流れを変える」かである。流されながら、翻弄されながら壊れない家かそこに根付いて津波を受けても舟の舳先のような形をした先端が津波の波を切り裂いていけばいい。

その避難所の設計は船舶の設計技術が生かされるだろう。

 

家は流され、再び大切な思い出の品々は失われるだろう。でも同じ土地は残っている。そこに再建して新しい記憶をつくればいい。復旧によって復興する計画である。

 

大自然への敬虔な気持ちを忘れる事なく、自然への挑戦と自然との共生を計る都市となるだろう。自分も蟻や石ころや樹木と同じ生き物だという謙虚さと自信とを忘れてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

5月 10, 2011

被災地はどこも妙にきれいだった。

瓦礫が埋め尽くすところも、自動車が点々と転がっている広大な田圃の風景もどこか寂寥感の漂う、詩情あふれる風景だった。

 

日常がなにか巨大な洗礼を受けて詩的な風景に塗り直されているかのようだった。そこここにあるプラスティックのアンパンマンや健康器具や鍋窯や電化製品などが半ば微細な砂に埋もれているのだが決して不潔な,悲惨な、血みどろなものではなかった。

やはり、なにか強大な力が一瞬のうちに日常を化石化したのだった。

 

津波はそのままそこにはなく、狂った様な瞬間をすぎれば何食わぬ顔で去って行ったのだろう。水は去って泥は微細な砂になり、打ち砕かれた家の柱は壁や家具や、様々なものが粉砕されて、まさに粉々になってきれいな破片になっていた。そう、粉々のきれいな破片だった。

 

自動車はあの日常に見る自動車の悲惨な残骸には見えなかった。オイルやガソリンは蒸発したのだろうか?悲しみもまた蒸発したのだろうか?裏返しになって日頃見せない車の肢体は当たり前にそこにいた。

 

風景は舞台のようだった。

これはまさに前衛藝術の舞台だ。ランドスケープのアート作品である。

意図して自動車は電柱に駆け上り、家の上に気取って乗っているかのようだった。それにしてはちょっと出来過ぎだなと思う程にパフォーマンスは派手だった。直径20mはあろうかというオイル貯蔵のための円筒の金属体がうまく道路を飛び越して工場の敷地はしに転がっていた。その下にはぺちゃんこになった車があった。見せた事のない金属体の裏側と上部が横になって人の目に曝されている。大型のトラックが44のナンバープレートをこちらに向けて半分塀に身体を載せてお尻を曝している。それらが何も不思議はない、なにも不潔でない、なみも悲劇を感じさせずに展開されている…不思議な風景だった。

 

77のナンバーをつけた乗用車が裏返しにめちゃくちゃ壊れている。縁起をかついで選んだナンバーだったのだろう。やっと小さく、この数字の影に人の思いが透かして見える。

廻りの風景からは恨みや希望や熱い人の願いは不思議にかき消されている。2ヶ月に近い、この歳月が災害地の風景を詩に変えたのだろう。津波は日常的な人間の想いを街から奪い取っていったのだろう。

 

避難所には殆ど人は居なかった。少しの中学生とその親達がまるで留守を守っているかのように日常生活を始めている。大半の人たちは自分の家を片付けに、あるいは仕事を見つけて外出している。避難所の担当官がむしろ目立っている。様々な情報の張り紙も生活が始まっていることを教えてくれる。慰問や支援に現われる人たちも避難しているここの住民達には日常の来客になっている。まるで特別の出来事ではないように対応している。

 

この瓦礫の風景とこの避難所の風景はどこか共通するものがある。

悲劇はもうすっかり風化しているのだろう。そう出なければ二ヶ月の月日は過ごせないのだろう。辛さを克服して災害地の風景はいま、悲劇から寂寥感ただよう詩的な風景に変わりつつある。

ここで見えてくるのは偉大な自然の営為である。偉大な人間の再生能力である。

こうして全ては新しい秩序に向かうのだろう。大波が納まり静かな海になるように、日常もあたらしい日常を取り戻して行く。

 

大分に近い福岡県の山の中の奥にある民家にいる。まだ早朝の4時を回ったところである。

こうして僕も昨日のあの光景から今はのどかな山村の風景の早朝にこれを書いている。まるで絵本のページをめくったかのように、ついさっきまでの心に刻まれた光景を振り返って眺めている。