11月 18, 2011

ずんぐりとしてまるで小象のような椅子である。太い4本の脚から繋がる背への形がちょっとヒップに似ていて、なぜか座る度になぜてしまう。

 

木の切り株でも、路傍の石でも丁度いい高さなら何だって椅子になる。椅子はだから座る人が椅子にするんだといってもいいのだけれど、椅子をデザインしようとなると簡単ではなくなる。

 

20年以上前に構想して,試作だけして倉庫に放り込んであったのだが、ある日この椅子の写真を見た、見知らぬ人から「あの椅子を買いたい」と申し出があり、そういえば・・・と思索してくれたミネルバの宮本さんに相談して商品として世に出ることになった。何とも不思議な生い立ちの椅子である。

 

あの頃、どういう発想からあの象のような椅子ができたか記憶がないのだが、僕の心の深層を解剖して行くと一つの秘密が見えてくる。

 

あれは「椅子になりたがっている座布団だ」とあるとき閃いた。

日本には家具の歴史がない。家具は西洋のように履物を履いたまま部屋で生活する人たちが腰を下ろして「ホッとするところ」である。

玄関で履物を脱いでごろごろ寝転がることもできるプラットフォームのような「床」という貼り廻らした板の上に「畳」という歩くことも出来、寝転がることも出来る適度なクッション性をもった素材を敷いて、寝る時には「布団」を、座る時には「座布団」を敷き、そこに座る日本の家では「椅子」が発達しない。

 

畳とは実に巧妙な素材感のマットである。食事を入れたお膳を置いても不安定にならず、座布団をしけば快適に座ることの出来る不思議な畳のお陰で日本には遂に椅子は生まれることはなかった。

 

近代になって、西洋の椅子やベッドの生活が導入され、合理的な住まいを考えだしてから日本では和式と様式の二重の生活スタイルを持つことになったのだが、そんな「椅子の歴史を持たない日本の椅子」はどうあるのだろうときっと無意識に考えたのに違いない。

 

そして、椅子の思想が座布団に乗り移ってこのZOが出来たのではないかとフッと思った。これはちょっと面白い説明である。この「椅子になりたがる座布団」という発想が自分で気に入ってしまった。

 

デザインはこうしてもっともらしい説明を受けて心のどこかにストンと納得する。きっとこのZO の背後には「ギリシャ神殿の列柱」のイメージが重なっているのではないかとも思うのだが説明の面白さを考えたらこの話はない方がいいかなと思ったりもする。

デザインは理論からは決して生まれない。もっと複雑な思考やデザイナーの嗜好が微妙に重なって、本人も気付かないことがデザインの中に忍び込んでいて、なぜこのデザインが生まれたのだろうと自分の意識や記憶を再解剖することでやっと自分でも納得するのである。だから誰もこのデザインの本当の意味を知らないと言うべきなのだろう。

 

でも「椅子になりたがっている座布団」はなかなかいい。そういうことにしておこうと思う。ZOに聴いたらきっとそんな答えが返ってくるような気がする。


11月 18, 2011

前から構想しているのだがなかなか実行できないでいる企画がある。「物語」(仮名)の出版である。これを解剖すると「物」と「語」によるエッセイといったらいいだろうか・・・。僕は「物」は物質による理論だと思っているし、「語り」は言語による作品だと思っている。その実証・・・とでも言うべき本の出版である。「作品」に語らせながら同時に「文章」でも語る、いわば三次元的表現である。

「物・語」という表現はもう1997年に、文化デザイン会議、岩手会議で僕が議長をしたときに提出したテーマでもある。この時は「もの∞かたり」というちょっと捻ったテーマになったが、文化人類学者の竹村真一さんと今は亡き、杉浦日向子さんが副議長をして僕を支えてくれた。

この時に込めた意味は、まさに今思うことと変わらない。だだ、当時は「物学」という概念に夢中だったこともあって、「物」に特別な想いがあったからニュアンスはちょっと違ってはいたのだが・・・。

今日から始めようとするのは出版を目指しての「下書き」のつもりで「物とそのお話」を書き始めようと思う。これを丹念によんでいれば本を買う必要もなくなる(^^)。どこまで続くか・・・やってみよう。先ずは「ある椅子の話」からである。