1月 20, 2014

一人でいると寂しいのにみんなと居ると一人になりたくなる。勝手だな~と思う。若い頃は夢中でわいわい騒いでいて平気だったけど近頃は特に一人の心地よさは捨てられないなと思う。

人はだれでも一人で生まれて一人で死ぬのだけど一人でいると不安なのも否定できない。一人がいいなという気持ちには僕は一人じゃないという自負があるのだろう。心の底には一人の不安と恐怖が宿っているように思う。

 

人間はたくさんの人に依存して生きている。一人で生まれ一人で死ぬのだけれど一人では生きられない。両親がいなくちゃ自分は生まれなかったのだし、女性がいなくちゃ子供もつくれない。寂しくなると女性と抱き合いたくなるのも母の体温の記憶のせいなのだろうか。子孫を残そうとする生物の本能からだろうか?

 

人は依存しながら自立させられている。人は酸素なしにはいきられない、他の生物を食べて生きている。本当は独り立ちなどしていないのに、心は一人で生きなくてはならないのだからかなわない。

人間は、本当は自然の一部である。自然の一部だと言うことは自然に依存していることなのだがそれにもかかわらず一人で考え、自分の世界を持ち、その内的世界は決して人と共有することができない。

 

人は孤独である。孤独だから人に会い、人と共感したくなるのだが、結局、一人であることを思い知らされる。人の心の中は見えないのだ。どんなに愛し合っていても人の心の中には入れないのだ。

だからまた、人を求める。そして裏切られる。

人間と人間には共感などは決してあり得ないのだろう。そう考えることが正しいだろう。

人はすばらしい自分自身の内的世界を持っている。人は人の創作に感動するときそれは共感ではなく単なる共鳴なのだ。ともに感じるのではなく、他者の創作が刺激になって僕の内的世界が共鳴するだけのことなのだ。そこでは他者は伝達ではなく単に刺激を与えたにすぎない。

視点を変えると、本当は人間の孤独は寂しいことでも悲しいことでもない。無限に広がった内的世界の支配者なのだ。引いてみれば孤独でも挑戦的に見れば支配している。

それなのに、その支配者は限りない浮遊感にも同時に苛まれてもいる。矛盾する二つの絶対的な感覚がある。耐えられない孤独と不安と恐怖があり、偉大な内的世界の自信に満ちた尊厳とその不安が共存している。創造の原点にこの二つの矛盾した感覚があるのだろう。

不安を感じる能力、不安を不安として受け入れる能力と燃え上がる自分の中の創作の感覚。強い人間とはこの二つをしっかりと捕まえていることなのだろう。

(写真は三里屯の装飾照明)

 

1月 03, 2014

異なる意見、異なる思想、異なる感覚は当然、人間だからある。同じ国に棲む人々の間にもあるのだから国が違えば当然、意見の相違は生まれる。鎖国状態であれば起こらないことも情報技術の発達したこの地球では地球が狭くなって日常的に異なる意見と出くわすことになる。

それをいちいち反発して議論しないと言うのではこれからの世界の平和は訪れない。異なるから議論をし意見を交換することこそ大切なことである。それが政治の世界ではなかなか上手くいかないらしい。相手の尊厳を先ず認めていたらそのようなことは起こらないだろうにと思う。対立することで国内の結束を固めなければならない脆弱な国内事情があるのかも知れない。長年の恨み辛みが未来への展望を捨てて喧嘩腰でいるのかも知れないなと思ったりする。

僕たちには確かに過去が記憶としてある。悲しい思いや悔しい思い。怒りもあるだろう。それを優先せざるを得ないとしたらなんと悲しいことだ。どうして悪意に理解して未来の友好に目を向けないのだろう。夫婦だって友人同士だって悪意を持ち続けたら未来はない。未来のために過去を忘れるということはできないのか?

過去の歴史が重要だとしたら徹底して双方が過去の歴史の意味を論文化してはどうか?歴史は日本が一国だけでつくってきたのではないだろう。時代の流れが、もちろんその中に一人ひとりの人の意思も関係してはいても、大きな流れが日本を植民地化に走らせその結果が朝鮮王国の崩壊と清朝の崩壊を誘発させた。それを切っ掛けとして中国の内戦が起こり今の共産党政権が実現したのである。朝鮮王国の崩壊も現在の韓国の独立に繋がっている。

戦争を進めた特定の日本人への恨みより大きな歴史の流れとして勃発した戦争そのものを恨むべきではないのだろうか?もう二度と戦争はしないと誓うことこそ大切なのではないだろうか?

人間という矛盾に満ちた生き物がから簡単には過去を捨てきれないのかも知れない。まだまだ稚拙な人間は自分の利益を追求するために過去を取り上げて対立関係をつくり出し、あわよくば国土を増やそうとしているのだろうか?

意見の相違があるのはほとんどは国と国との関係である。人と人はそれほどの大きな意見の相違は発見できない。文化の相違は楽しいのだけれど国の問題となると喧嘩腰になる。国って一体何だろう?民族相互の争いもこの地球上では後を絶たない。

ことなる民族、ことなる国家では権力争いは起こるのだが人と人の間では思想の相違と文化的相違に気づくだけである。その相違はむしろ好奇心を駆り立ててくれるし興味津々である。意見が違えばもっとその意見を知りたくなる。それが国家となるとそうはいかないのだ。

悲しいことである。いっそ国家をなくせないだろうか?血の融合をはかって民族を一つにすることはできないのだろうか?一つにできないのならせめて争いと共感を同時存在させる方法を見つけ出したい。争いながら共同する。争いながら握手する。争いながら抱擁する手法を、思想を見つけ出したいなと思う。競争と共存は政治以外の普通の世界では当たり前に存在する。

左手で殴り合いながら右手で握手をすればいい。

その争いのばかばかしさを思うと左手の殴り合いは指相撲のようなものに見えてくる。小さな島を争い、プライドと心が傷ついたという小さな争いはせいぜい指相撲と考えてもいい。左手で指相撲をしながら右手で愛撫し合うのがいい。

人と人が殺し合う・・・こんなイメージはだれも持てないだろう。物語だけで充分である。阿部総理の靖国神社の参拝も大人げないプライドだが、それを怒る中国や韓国もまるで子供である。たくさんの国民、市民の幸せとどう関係しているのだろう。飢えた小さな命を思えばこの靖国のやりとりは馬鹿馬鹿しいと言わざるを得ない。政治家たちにもっと普通の市民感覚を持って欲しい。皮膚感覚で人を感じていて欲しい。政治ごっこはもうたくさんである。