2月 20, 2014

東京二期会のオペラを観てきた。 ジュゼッペ・ウェルディの「Don Carlo」である。オペラ劇場ではない東京文化会館大ホールだからオペラの醍醐味はだいぶ薄いのだが会場は満席で大盛会であった。

ドン・カルロに限らないのだがオペラからは「神と愛」の重圧に押しつぶされそうなヨーロッパ人が見えてくる。僕が大学生のころだからまだ10代後半か20代になったばかりだったのだが、東京大学の当時、名誉教授だった浅田孝さんがこう僕に語ってくれた。「雅之君、ヨーロッパ文化はキリスト教を理解しなくては分からないよ」と言うのである。100%キリスト教文化だというのである。オペラを観ているとその言葉を思い出す。

王も神に与えられた立場である。だから教会には頭が上がらない。王の后の昔の許嫁に対する恋心は神への罪の意識で苦しみに変わる。愛はどこまでも奉仕的で美しいのだが現実離れに感じるのは日本人だからか・・・。罪と愛の重さに押しつぶされて死を選ぶ場合も死後の世界は神の世界であったりするのだ。

大学生のころ、ニーチェだのサルトルだのに夢中になっていた頃、「神は死んだ」と絞り出すように書かれているニーチェの言葉が不思議だった。初めから僕たちには神はいなかったのだから当然である。神に人間の無力さを指摘されながら守られていたのに「神が死ぬ」ことで突然、不安におののくことになるのらしい。僕たちにとって人間は初めから不安な存在だったのだが、西洋人は神を捨ててはじめてその不安を知ることになる。

キリスト教は実に壮大な「仮説」だったのだと思う。この壮大な仮説を理論化するために哲学が育ったのだし、その仮説を広めるために世界一のベストセラーである聖書がつくられた。その聖書に1行、「ユダヤ人はキリストの死を否定しなかった」と書かれているだけでその後のユダヤ人の悲惨な運命が始まったのだそうである。なんと恐ろしいことだろう。

それにしても壮大にして華麗な仮説だった。建築から音楽から絵画から、生活の隅々まで呑み込んでしまったキリスト教の文化はオペラを観ても華麗で壮大である。初めてヨーロッパの旅をして美術館を観歩き、血みどろな絵画に驚いたのだが、キリスト教の物語は血だらけである。国家間の民族闘争もその血を生み出したのだが、キリスト教を布教する時の魔女狩りなどの血みどろの歴史も今のキリスト教文明を創り上げた影の物語である。狩猟民族で都市国家間の闘争がありそこにキリスト教の布教がこのような血を呼ぶのだろう。

あの感動的なオーケストラの音楽の背後にも見えないのだがきっと血のにほいがしみこんでいるのだろう。オペラは血だらけだった。美しい愛の苦悩にもどうしても血のにほいがする。

ほんとうに日本人は愛を信じるのか?愛を語れるのか?キリスト教の国での愛にはその背後に神への愛が見える。奉仕的で見返りのない愛。日本人にこの愛を本当に知っている人はいないだろうと思う。近代はヨーロッパで始まった。近代思想はこのキリスト教の思想を継承せざるをえなかったのである。こうして近代思想も近代建築・デザインもキリスト教的になり、禁欲的になった。まるでキリスト教がヨーロッパを、世界を支配して土着宗教を抹殺しつくしたように、近代思想は世界の個性的な文化を一色に染め抜いてしまった。

そして、神の価値観を科学技術の価値観にすり替えて、絶対的なものとして近代の価値はつくられていった。人々はその言葉の歴史の深い意味を知らないで「愛している」と言っている。君はほんとうに愛を知っているのか?そう問いたいと思う。ドン・カルロを観てフットそのことを考えた。

(写真は東京二期会の舞台ではない)