7月 18, 2011

 

飯館村を訪ねた。地元の青年、老人達、村役場の若者たちと2日間を過ごした。目眩がする程にいろいろな想いが脳裏を駆け巡る二日間だった。生きるとはどういうことか?コミュニティとはなにだったか?死の恐怖と美しい自然の信じられない対比のなかで過ごした2日間を辿ってみたい。出来るだけ簡潔にこの混乱した現地の人々と混乱した僕の頭の中をさらけ出したい。

 

ご自分のことを考えることで彼らの置かれた状況を考えて欲しい。「東京が放射能に汚染されて家も仕事場も放棄し、ペットを残してどこかへ避難することになった」としたらどうだろう。

僕だったら・・・コンピュータとこれまでの仕事のデータとつくりかけの家具や建築の模型と・・・作品の掲載された膨大な過去の雑誌は持って行けない・・・思い出の品も写真帳も頂いたもの、骨董品や大切な品々も持っては行けない。行き先は?・・・僕ならきっと兄弟のいる名古屋かも知れない。妻は自分の縁者の居る土地がいいと言い張るだろう。近頃仕事が多くなった中国や台湾に行くか・・・。果たしてそれで仕事が続けられるだろうか?クライアントとの連絡はどうする。やりかけの仕事の始末はどうする。友人達との別れは?・・・もちろん、東京単位の集団での避難所など考えられない。

飯館村の農民達はその上に「仕事場である農地」を放棄しなくてはならない。村のあちこちに犬や猫がうろうろしていて僕たちを追いかけて来たりする。鳴いて食べ物をねだっている。農地を放棄し、家を放棄し、農機具も・・・酪農家は牛や豚さえ放棄して去らねばならない。

男女二人の老人が僕につぶやいた。朝、起きて行政から頂いた「街の見回り」と「道路際の草刈り」のしごとを午前中に終えて、食事をして午後は何もすることがないから太っちゃうのだよという。まるで豚が餌を貰うように決まった時間に仕事を貰うだけの生活。後は寝ているしかないいだという。太ってジーンズがはけなくなったという。

 

彼らが失ったもの、それは「生活そのもの」だったのだ。家を失ったのではない。村を失っただけでもない。そこにいては死んでしまうから外にでなくてはならない。被災者住宅にいるということはどんなにその家が立派でも「生活がない」、「仕事がない」、太ってしまうまさに豚小屋の豚だったのだ。

ボランティアはもちろん価値がある。助かるよ・・・と被災者はいう。泥を除去したり、家財を被災者住宅まで運んでくれたりして助かったと言う。なんと謙虚な表現だろう。だって、彼らは生活を失ったのだ。被災者住宅に住んでも仕事が失われたままだ。ボランティアが運ぶ食物を食べて、寝るしかない日々に太っていくのだ。

 

子供の居る人は放射能による子供のうける健康被害を心配する。子供だけを避難させて老人だけが農地があるから残ろうとしても「孫の居ない毎日が孤立した老人を生み出す」。老人達半分だけが住んだとしても道路も整備しなくてはならない、水道や電気も供給しなくてはならない・・・その都市経費はとても老人だけの村落では維持できない。

放棄された農地は外来種の背の高い雑草に覆われ始めている。たまに環境維持の車と警察車が行き来するだけの道路では蔦が道路にはみ出して繁茂している。どうして動物には危険な放射能が植物には無害なのだろう。どうしてこんなに村を植物が呑み込んで行くのだろう。まるで、アンコール・ワットである。密林に覆われたアンコール・ワットの様に、数年を待たずして飯館村は変貌するだろう。

その農地を放射能のなかで今でも耕している農民もいる。あぜ道の雑草を刈り取ろうと頑張っている農家もある。去れないのだ。どうしても自分の農地を捨てきれないのだ。都会を離れて脱サラをした青年の夢も破れてしまった。建てたばかりの家をそのまま、捨てさせられている。

殆ど誰も住んでいない、空っぽの村を走り回る自動車の中に置いた線量計が始終、ピッピッピと鳴り止まない。そのピッの一つに一つの放射線が存在する。外の線量は4マイクロシーベルトから7程度。一部の地域で突然、40や70マイクロシーベルトを指したりする。雨樋の下の土は放射能が蓄積されて最大400マイクロシーベルトを指していた。

これからどうするか?彼らはなにの回答も持っていない。未来がないのだ。人間は「記憶としての過去」と「願いとしての未来」を持って今をいきている。その過去の記憶の詰まった故郷を捨て、未来の希望や予定を持たないままに生きている。これは人間であることをやめろということだ。

同じ境遇にいるから彼らは一緒に考えようとしている。そのために多様な考えが混乱して議論される。人の数だけ意見があることになる。一人一人が未来を描けないのだから議論しても結論が出ない。村を東電に買ってもらうのがいい・・・でも老人達はその土地を捨てきれない。子供達はいち早く避難しているのだが避難であって生活を手に入れたのではない、そんな状況でのこれからの村の構想が描ける筈がない。

 

僕は彼らにこう言って来た。先ずは自分のことを考えなさい。村がどうなるか、村をどうするかではなく、自分はどうしたいかを考えなさいと・・・。村はもう使えないから捨てなさい。自分の人生設計を広い地球で計画しなさい。この危機をチャンスにしなさい。美しい村はそっと思い出の場所として博物館か美術館のようにそれ自体を保存しよう。きっと雑草が生い茂るだろう・・・そういうところと一部でも綺麗に整備したところをつくればいい。「放射能」や「原子力発電」や「人間と自然」などの「この事件」で発見した凄いことを展示して研究する場所にしてもいい。「飯館村」は世界的に有名になった、それをシンボルとして残すことを考えよう・・・でも村の未来を自分の未来と混合してはならない。自分の人生設計をこの際、先ずしっかりつくろう。その実現の手助けを役所なり政府なり東電に要求しよう。

ボランティアーとは自発的行動のことである。東京からボランティアが来た、というのではなく、自分自身がボランタリ・スピリッツをもって自分でこの苦境をチャンスにして自分だけの未来を構想しよう。そう主張してきた。

 

僕は美を探すために飯館村へ出かけた。放射能という見えない危機をもった美しい風景を撮影したいと出かけて来た。美はきっとこのような死の隣にあると直感したからである。見えない放射能を撮影することはできない。でも美しく芸術的な写真にすることで放射能が見えてくるのではないか・・・と思ったのである。僕の写真術ではおぼつかないのだが、チャンスだと思ったのだ。

35度の暑い夏の訪問だから夏の風景である。もう一度、秋に来よう。冬はどうだろう?春の花の季節にも来よう・・・そう考えながら飯館村を後のした。そこで知り合った人たちとはきっと交流は続くだろう。