12月 13, 2011



(深圳でのディナーテーブル)

こんなに近いのに日本人は中国のことを知らないな〜と思う。近くて遠い国とはこんなことだろう。親は子どものことを子どもは親のことを知らないのもこれに似ている。無関係だと好奇心だけで対面できるのだが関係が深いと好奇心だけでは済まない複雑な意識が邪魔をする。

しかし、もうそんなことを言っている場合じゃない。このままじゃ日本は孤立するし破綻する。世界はどんどん動いていて世界の中での中国の位置は巨大になった。開き切っていない国だから想いも複雑になるのは否めないが、政治家のように国と付き合うのではない、付合うのは中国人だ。

 

中国人だって日本と言う国を考えたらいろいろな想いがあるだろう。過去は捨てろといったって親の世代や祖父の時代のことだから記憶は消せないでいるだろう。国じゃない、人と付き合うのだと考えることが出発点だ。

 

僕はいろいろな言い方としている。一つは「僕はアジア人だ」という表現であり意識である。こういったとたんに中国人も韓国人も日本人も同じになる。僕たちはアジア人だ・・・と生活できる。経済不況だけではなく経済成長さえ自分の問題になる。国の境界ではなく文化の境界をこそ考えるべきだ。

もう一つは頭から信じることであり、好きになることだ。信じる人を人は裏切らないし、好きになれば気になっていたことも許せるようになる。好かれて好き返さない人も少ない。

 

先手必勝である。先ずこっちから信じ、好きになることだ。

 

今、世界はグローバルになったという。グローバルと言う意味は世界が丸く見えるようになったということであり、一つになって動くようになったと言うことである。昔は日本の一地方、福岡は福岡の生活があったのに今は東京も福岡も日本の一地方である。これまでは日本には日本の生活があったが今は中国もギリシャもドイツも、そして東京も世界という丸い地球の一部としてつながっている。

 

ギリシャの国債発行が日本を苦しめている。日産自動車はそのほとんどを日本以外の国でつくっている。日本のいろいろな企業の多くがその製品の殆どを海外で販売している。こんな時代には日本は一人では生きていない。みんなつながっている。昔は福岡の県境は強い意味があったのだが、今では知らないで通過している。今は国境を越えるのにパスポートをチェックされる。でも生活の実態はとっくに国境なんて消えている。

 

確かに日本は島国だから優れて純化した文化をつくりあげた。その素晴らしさと裏腹に文化も純粋だが意識も閉鎖的で、異なる意見を排除したがる。動物の世界では弱肉強食で他者はいい餌でもあり外敵でもある。こんな混沌を知らない日本人はなかなか世界に出られない。だからますます、中国のことを知らないままでいる。

 

妻の母親は若い時からアメリカに出入りして、彼女の最初の出版は英語で書いた本だった。もちろんアメリカで出版されている。そんな母から聞いた話である。マッカーサーが日本の占領政策として最初にしたのは「日本人の研究だった」と母はいう。最初に日本に上陸したアメリカ軍のチームは徹底的に日本人を研究していてどうこれからの日本を再生させるかを滅密に考えていたらしい。

 

日本も中国の文化と中国人の過ごして来た歴史を勉強するべきだろう。日本政府は中国研究をどの程度行っているかである。知らないことが恐怖を生むし不信感を育てる。そもそも多くの民族の闘争の歴史を持つ国だから相当に異なる文化を持っている。多様性そのものであるこの中国を、純粋な日本文化の内に過ごしてきた日本人には不慣れなのは当然だろう。

 

中国の政治がまだ解放されていないのも問題だが、日本人の意識が未だに解放されていないのはもっと問題だろう。みんな「アジア人」の意識を持つべきだ。

 

中国人の或るデザインオフィスは香港に本社を持っていると言っていた。もう一つの僕の契約している家具会社は本社がやはり香港だ。支社はパリにある。アジア人の意識を持って、アジアの一地域である日本を本籍地であり故郷と考えて生活の場、仕事の活動の場はアジアだと考えてはどうだろう。そうすれば仕事のあるところへ行って仕事すればいい。風光明媚なところで休息し、販売に適したところでショップを持ち、生産技術がすぐれコストの安いところで生産すればいい。アジアのすべてが自分の国だと考えればいい。