3月 28, 2011

 

 

 

僕の誕生は太平洋戦争への導入のころだった。少年の僕はその迫り来る怒濤の年月への恐怖もなく天真爛漫に過ごしていた。

それでも少年の記憶には恐ろしい出来事も美しい出来事として記憶されている。名古屋の空が真っ赤になった空襲の夜の光景や電波妨害のためだと言われた銀色のテープがアメリカの飛行機からまき散らされた光景など・・・零戦が10000mを飛ぶB29 の編隊に立ち向かっては落され、ひらひらと空を舞い落ちる光景など,すべての戦争の記憶はドラマティックな美しい光景だった。

終戦後、名古屋市内にある東海学園に入る。厳しい受験校だったから楽しい思い出は殆ど記憶していない。美術部にいて時々絵を描いていたこと映画部の季刊誌の表紙を描いたこと、学園祭の演劇の舞台装置をデザインして賞をいただいたことなどを記憶している。

激しい受験勉強にも関わらず、持ち前の記憶力の低い僕には希望する大学には行けなかった。浪人の後に名古屋工業大学に入る。一挙に解放されて読書三昧。美術部での活動。社交ダンスの教習所通い・・・。青春はここからやっと始まったのである。しかし、この時期が僕の思想形成の大切な時期だったと思う。コリン・ウイルソンは当時はオカルトに偏っていず、「殺人百科」や「アウトサイダーとはなにか」など新実存主義と称した多くの著作が僕の思想をつくりあげていった。

1960年の安保闘争、そしてその年の世界デザイン会議(WODECO)への出席とルイス・カーンとの出合い。早稲田の大学院に友を求めて入学する。修士課程の間に始めての結婚をして、苦学生の僕はGKデザイン研究所で研究生として働き、「建築の産業化」を学ぶ。大学院に通いいながら家庭を持ち、子供をつくって就職もする。貧乏がなんの苦もなく毎日が充実していた。

当時、僕はこう考えていた。「建築は劇的に変わるだろう」と、そしてそれは「建築の都市化と産業化」に違いないと感じていた。まさにその通りになったのだが「建築の産業化」を学ぶべくGKデザイン研究生としてメタボリズムのメンバーだった栄久庵憲司さんの作品を後ろでつくっていた。

カウフマン賞と言うのがあった。研究成果を提出して評価を受けると研究費がでる・・・というものだった。それを担当して賞を得たというので100万円を貰い、80日間の世界一周をしたのが大学院博士課程を終了する最後の年末だった。世界一周の厚いチケットの束をポケットに入れて、無銭旅行のような80日間だった。

これからの世界はどの国が思想やデザインのリーダーになるだろう・・・というのが僕の旅行の目的の一つだった。途中で国ではなく民族だと気付きスエーデンの図書館でヨーロッパの民族史を学んだりもした。ユダヤ人の才能を見てのことだった。

もう一つの目的はル・コルビュジェのマルセイユにあるユニテ・ダビタシオンの前で「君の時代は終わったよ!」と告げ、「その宣言文を書くことだった」。遠くから訪ね、壮大な建築に打ちのめされて何も書けなかったことがつい最近のように思い出される。

30才の4月。建築の実務経験は殆どないままに事務所を設立した。黒川雅之建築設計事務所である。

それから44年。いろいろなことがあった。

 

 

苦しい時代が10年程続いた。野望だけは大きく、でも仕事は思うようには取れなかった。「建築は都市化と産業化で激変する」と予言していた僕は勢い建築の都市化と産業化の方に向かっていく。特に産業化はお手のものだった。強化プラスティックによる小型のカプセルハウスなどを製品化したりした。大阪万博もいいタイミングだった。政府館の展示設計や中南米協同館の設計などで大阪へたびたび通ったものである。当時完成した東名高速を1000cc のニッサンサニーでぶっ飛ばすと時速100キロで異様な振動を始めたものだ。

高度成長期にはいりバブルがぶくぶく膨れ上がるころは僕の創作意欲は最高潮だった。予算は天井がない。素材の選択は気分で決めた。坪単価で数百万使って設計できた。ゴルフ場のクラブハウスをたくさん設計した。

このころ田中一光さんとの出合いは僕の人生の大切な1ページであった。TOTOとの関係をつくってくれたのもそうだし、デザイナーズ・スペースというギャラリー運動もそうだった。人を育てる人だった。裏千家とのつながりもその時に生まれた。茶美会という現代デザインと茶道という伝統との融合の運動も田中一光さんがいてのことだった。僕のオフィスの収入も増大し、ポルシェとBMWの5000ccの二台が僕の駐車場にあった。

バブルの崩壊は簡単にやって来た。坪単価、数百万の予算で設計していたゴルフクラブハウスはその瞬間に数十万の単価の設計に変更となった。数百万のつもりで設計していたあるビルの工事費は崩壊とともに60万円で請け負う大手企業が現われた。設計料は突然十分の一になった。

そこから再び苦難な時代が始まる。小さい仕事も大手施工会社がかすめ取っていった。僕はもっぱら思索し本を書くことになる。

60才の時、コンピュータとの出合いが僕のこの著作の後押しをしてくれた。それまで、ペンだこで苦労したのが嘘のように原稿がどんどん書けるようになった。頭に浮かんでくる言葉のテンポに手が追いつかなかったのだが、キーボードはそれをいいリズムで書き取ってくれた。そして、僕の頭も創作で培った思想が言語になってどんどんでてくるようになった。

仕事がないのも悪いことじゃないと思った。お金はしっかり溜め込んでいたバブルの蓄積をタケノコ生活で細らせていった。

そのために蓄えていたかのように、もう一つの重要な時期だったと思う。

今は再び、苦難の時期である。

 

 

この僕の人生を分析してみることにした。人生の準備時期は小学校、中学、高校時代と、それに大学と大学院の教育の時代である。

確かに、色々学び、30才になるまで一人前の建築家にはなっていない。早稲田を終了して、スタジオを設立してからの12年間は窮乏時代だったのだが同時にビッグになる夢を見ながらチャレンジの連続だった。建築は変わる!と豪語して先輩の建築家達に食って掛かった。「灰皿も小さい建築だ」と主張し、「東京のレオナルド・ダ・ヴィンチ」を自称して「プッシュピンから都市まで」という展覧会をニューヨークで開催したりもした。貧乏でも、いや,貧乏だからこそ力があった。

 

 

1980年、43才の働き盛りからバブル景気が始まった。僕には絶好のタイミングだった。油の乗った時期に思いっきりの仕事ができたことは幸いだった。1992年までの12年間続いたバブル景気はこの年に突然はじけた。

宇宙の摂理が僕に創作から思索への転換を誘導したのだろう。不況はそれなりに素晴らしい効果を持っていた。それから12年間は多くの著作と展覧会を開催できた。

2006年に準備を始めて、2007年にKという会社をつくることになる。僕はレオナルド・ダ・ヴィンチを称してきた。テクノロジーを駆使してメジチ家のための武器を開発し、解剖学を通じて人体をその内部まで描き切り、彫刻や絵画や建築などすべてを総合的に創作した建築家、レオナルド・ダ・ヴィンチのように、僕は建築からプッシュピンまでデザインして来た。その上に「企て、設計し、製造し、販売する」ものづくりの総合を始めようと考えた。職人は一人の手でものづくりをする。建築家は多くの人の手を総合して、指揮してものづくりをする。このすべてのプロセスを自分で完成させようというのである。

僕はこれを創作者の総決算だと思っている。創作者としての人生の総決算かもしれない。

こうして見てくると面白いことに気付く。

起承転結の人生なのだ。起は「挑戦の時代」、承は「充実の時代」であり「創作の時代」、転は「転換の時代」「理論の時代」であり、結は「総括」の時代であった。いずれもおよそ12年。最後の結「総括の時代」はまだ始まったばかりである。その道のりを12年とすると僕は81才まで仕事をすることになる。

 

 

 

 

 

最後にそれぞれの時代を予言的に解説してみたい。生まれた時代は太平洋戦争の時代だから「 catastophe / 破綻の時代」である。そして中学、高校、大学で学び、そして最初の挑戦をする30年間は「revolution & evolution/革命と成長の時代」である。バブル期は創作の頂点にいてまさに「maturity/成熟の時代」である。

そしてその直後に再び 「catastrophe/破綻の時代」が訪れることになる。バブルの崩壊であり12年間にも及ぶ景気の低迷である。そんな中で始まる新しいKの出発は 「revolution & evolution/革命と成長の時代ということになる。2011年の東北関東大震災と福島原発の危機的状況は新しい時代の到来を暗示している。catastrophe がまだ続きながら新たな世界に突入するのだろう。

そして、この時代が終わるころ、成熟の時代が来る。その時代は恐らく僕はいないであろう。

 

左の「西暦の年代」、その次に「僕の年齢」が書いてある。そして最後のページだけその次にもう一つの「数字」がある。これは今、スイスのMendrisio 建築大学で学んでいる息子の年齢である。もう僕はいないのなら息子の年齢を書いておこう。僕のDNAを運んで次の世代に届けるのは息子である。息子70才の時、僕は120才になっている。もちろん僕はもう生きてはいないだろうけれど、僕の想いは生き続けている。

(4月4日、僕の74才の誕生日がスタジオの44周年であり、Kの4周年である。その小さなパーティーでこの僕の歩いて来た道のりを話したいと思っている)

 

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