11月 30, 2013

この頃、やっと上海蟹がうまく食べられるようになった。もう10年以上、毎年いただいているのだが、日本のずわいのようには上手くはいかない。蟹が小さいのだ。だから食べた後のお皿の風景が汚い。中国人はそれは見事に美しく終える。

特に上海人はまるでまだ蟹がそこにあるように皿の上に蟹肉のなくなったからだけが上手に生きた蟹の形で完成する。それをちゃんと意識して食べる部位の順序まで語る上海人がいる。中国人は食べっぷりもいいけれどこの食べ終わった風景も見事だ。

とはいってもそのきれいの意味はいろいろである。ひまわりの種を彼らはよく食べるのだがこれがまた見事にテーブルから床までその皮をまき散らす。まるで桜の花びらのように真っ白になる。これもきれいな終え方の風景である。

中国の料理は二度と同じものがいただけないほどにいろいろな種類がある。地方によって異なる味だけではなく、あらゆる素材を使いこなして壮大な料理の王国を造り上げている。昔から中国人の食欲のすごさはみなさんご存じだろうがその注文する料理の数と量にはいつもはらはらする。日本人はレス・イズ・モアだから食べ終わったときに料理が空っぽになっているのが接待なのだが、中国ではいっぱい残っていることが大切なのだ。がんばって残さないように食べておなかを壊しそうになったらまたまた注文されて困ったという話があるが上手に残すことが「ありがとう」なのだ。

そこでいつも困るのが骨付きの料理が多いことである。もちろん骨の周りは美味しいのだから美味の追求のためだと思うのだがそれにしても鳥の脚だったり骨付きの肉だったりで食べるところはちょっとしかないときも多い。

やってと最近、中国料理の食べ方がわかってきた。それは骨から外してから肉だけを口に入れるのではだめだと言うことである。骨ごと口に入れて、骨を後でぺっと出すことを覚えないと本当の中華料理の通にはなれないのだ。

上海蟹が上手になったのはこの要領を覚えてからである。脚についた骨格の薄い殻をがぶっと口に放り込んで舌で上手に肉を外して殻を口から出す。これである。ひまわりの種も同様、殻を外してからでは食べられない。歯でぱちっとかんで殻をわってその瞬間に中だけ食べて殻を外に出している。中国人の多くは前歯にひまわりの種を割るために2〜3㎜ほどへこんだ筋がついている。

骨付きの肉もあまり大きくなければ骨ごと口に放り込む。

日本料理は食べやすくすべてを準備する。蟹だって全部殻から外して提供する。骨付きはほとんど見られない。中国人はその味をそのまま生かそうとする。骨の周りが美味しいのだからあらかじめ外したりしない。こう考えると中国人の美食文化が理解できる。

料理ならそれでいいのだが、時々、中国人は事業もこんな感じだな・・と思ったりする。清濁合わせ呑んでその後から悪の部分をぺっとはいているんじゃないかと思ったりする。これはちょっと冗談も入っているのだが、その内、僕も骨ごと食べられてペッツペッツと骨を捨てられるかも知れない。

そう言えばこんな昔の話を思い出した。まだ30代のころだったか、京都大学の山岳部の山男が人の紹介で現れた。ヒマラヤ登山隊に参加して欲しいというのだ。いろいろな学問を背景にした人たちが参加するのだという。こんな話をしてくれた。ヒマラヤ登頂のキャンプではビールを楽しむのだがコップにビールをつぐと周りにいっぱいいる蠅がビールに混じってコップに入る。それをいちいち取り除いてから呑もうとする人は参加できないよ、というのだ。ビールと蠅を一緒に口に入れて、蠅だけをぺっつとはき出すのだという。それができなきゃ来ない方がいいと言うのだ。

人生も民族も日本式と中国式があって、どうやら日本式は完成度は高いのだがひ弱な文化であり、中国式は野性的でサバイバルできる文化だという風に思えてくる。

蟹の食べ方が文化の強さを教えてくれる。