12月 18, 2013

またまた、愛国心教育という話題が政府から出てきた。愛国心ってなんだ?国って何だろう?

数年前のことだが、ソウルで講演をしたとき、聴衆の女子学生から「先生は愛国心についてどう思いますか?」という質問を受けてびっくりしたことがある。しばらく聞いていない単語だったから一瞬、戸惑ってしまったのだ。僕は即座にこう答えた。「僕は国のためにデザインをしたことはないです。世界の人間のためにデザインをしています」・・・と。

そういえば、もう三度にわたってソウルでの「東アジア三国の文化比較」に関するセミナーに招かれている。三度目は僕の尊敬する李御寧さんの推薦だったからよろこんで出席した。三度目に招待されたとき、僕は不思議な感覚を持った。どうして韓国はそれほど東アジアの三カ国、中国、韓国、日本の文化比較をしたがあるのだろう・・・と不思議になった。

ちょうどその頃、僕は「東アジアの美意識」という講演を中国のいろいろなところで始めていた。中国のデザイナーたちが自分たちのアイデンティティを知りたがっている、中国のオリジナルデザインて何だろう・・・と考え始めている時だった。それまで真似をしていればよかったのだが、彼等もコピーをしてはいけないと思い始めたのだろう。自分たちのデザインを探していた。中国人ではない僕にはそれを語る資格がない。そこで東アジアの美意識を語ることで中国のアイデンティティ探しのお手伝いをしているつもりだった。

そんな時だから、僕はこう主張していたのだ。「もう国は重要じゃない」、「文化圏こそ重要な概念だ」と主張していた。グローバル社会になって、当たり前に中国人や韓国人と交流しながら、政治の世界だけに対立し合う「国」の概念があった。どうして人間は、文化的視座では友人なのに国家の概念が登場すると対立的になるのだろう・・・と「国の概念をすてるべきだ」と思っていた。

そんなときに李御寧さんからの誘いだったのである。ソウルでのセミナーで僕はこう話し始めた。「三つの国の文化の比較が今回のテーマですが、僕は三つの国の共通性についてお話しすることにしました」・・・と。そうして、キリスト教文化、イスラム文化と東アジアの文化の相違を語ったのである。

そのことについて疑義は提出されなかったのだが、僕のレクチャーが終わってから壇上の韓国人の講師から「黒川さんのお使いになった<李氏朝鮮>という概念は韓国に対する蔑視語です・・という疑義がでた。僕は「それではどう言ってたらいいのでしょう?」と質問したのだが回答がない。彼女自身、蔑視語ではない言い方を知らなかったのだろうか??。ぼくは「朝鮮王国」でいいのでしょうか?と問うた。

韓国の人々は朝鮮人という表現が嫌いのようである。中国で北京清華大学の教授からなぜでしょうと質問を受けたのだがよくはわからない。その教授は会食の席で韓国のデザイナーに朝鮮という表現をしてしかられたのだそうである。

それはそうとして、どうして韓国の人々は自分たちが中国や日本と違うということを主張したいんだろう・・・。この相違を主張する感覚から「愛国心」が生まれているとしたらなにか怖いものが潜んでいるように思ってしまう。韓国では小学校から愛国心教育をしている。中国でもメディアは反日的情報を流している。

日本までそれをやるのか!と愕然としている。僕たち以上の年齢の日本人はこの愛国心という思想に翻弄された恐ろしい記憶がある。そうして、戦争を起こすことになったのだ。自分の国を愛することはいいことなのだが自分の国を愛することが他の国への蔑視や他の国の否定に繋がる可能性を感じずにはいられない。

僕は中国での講演に際して、必要以上に日本の文化が中国の文化を土台にして形成されてきたことを強調する。僕のどこかに、僕たちは同じ文化圏なのだと主張したいのだ。

本当は、同じ意見だから強調するのではなく、異なる意見だから歓び合い共存する時代が好ましい。意見が同じだねと握手するのではなく、意見が違うねと握手したい。同じ考えの人たちとグループを作っても成長はない。違うからこそおもしろい。そんな風になればいいのだが、違うことを対立関係と解釈し、理解することは本当は気に入らない。

愛国心は単に国を愛することなのだが、他の国の否定に繋がって行くことが恐ろしい。今回の安倍政権の「愛国心教育」も中国や韓国に対する日本人の排他的な意識教育のように思えてならない。今、僕は自分を「アジア人」だと主張している。日本は大切な、愛する故郷なのだが、まずはアジアで活動するアジア人でありたい。人間でありたい。

愛国心教育を注意深く見守っていきたい。反対を主張していきたい。その危険性を人々に知らせたい。そう思っている。