12月 21, 2013

「デモクラシー」は「民主主義」と同じではないという。しかし、この問題を論ずることは控えよう。

いずれにしても社会をどう市民が構成し、物事を決定していくかがこの二つの概念の重要なポイントであるらしい。

この政治的視点を避けて、この二つの概念に関係する要素を考えてみたい。

 

大切なのはおおよそこんな概念だろう。「1_自由」、「2_平等」、「3_多数決」、「4_権利」、「5_寛容・協力・譲歩」。この5つになるだろう。

(Bureau of International Information Programs “Principles of Democracy” より)

 

なかなか上手く説明されている。自由な個人といえども他人の権利を阻害してはならないし、平等といえども物事の決定は多数決でなされ、少数意見は寛容と譲歩によって個人の権利を損なわないように配慮される。

僕たちはこの民主主義に従って曲がりなりにも平和な生活を過ごしてきた。

 

そこで、もう一度、この多くの社会の人々が幸せに暮らす「政治や社会構造」という視点を離れて、その概念を考えてみたいと思う。

この5つの要素のなかで大切なのは「自由」と「平等」と「権利」だろう。多数決はさまざまな弊害が論じられてきたし、5つめの寛容・協力・譲歩は曖昧だが大切な概念だから「人間関係の潤滑油」ぐらいに考えて論じる必要はないだろう。

 

そして、この三つの内の「権利」は個人の基本的で根源的なものと考えていい。生命体の大原則である。そしてもう一つ、「自由」はこの他人の根源的権利を侵すことなく発揮されるべき権利である。人の権利を侵すことなく自己の自由の権利を発揮すればいいのである。欲望の赴くままに何をしても自由ということではなく、他者への配慮をしながら自己の権利を全うすることである。

 

本当はこの「権利」も「自由」も社会的な概念としてではなく、自分の内的なテーマとして考えるべきテーマなのだろう。民主主義の5つのキーワードのなかでこの「権利と自由」は哲学的、或いは思想的なテーマとしてとらえるべきなのだろう。近代哲学はこの問題を思索してきたのだ。

 

そうなると最後に残るのが「平等」である。この概念は権利や自由のように哲学的概念ではない。むしろ社会的な概念であり、政治的概念というべきだろう。しかし、同時に人間の根源的権利にも関係している。その上、多様で唯一性のある個人と個人がどのように平等であり得るかを考えると、曖昧であるだけではなく、根本的矛盾さえ感じる概念である。

子供と大人はどうすれば平等なのかは難しいテーマである。男と女の平等だって同じように難しい。同性で同年齢だからといっても個性や生い立ちは全部、異なる。ますます「平等」という概念は怪しくなる。民主主義の基本理念に入れることさえ危険な概念だといえそうである。

 

「平等」とはいったい何なのだろう?そんなことはあり得るのだろうか?どういう状態を平等というのかさえ分からなくなる。チャンスの平等が大切だとも言う。結果の平等ではないというのである。しかし、チャンスだってその人の状態が様々である以上、抽象的でしかない。大学を受験する資格は平等でも具体的にひとりひとりの状況を考えたら大学より自立してベンチャー企業を興したい人だっているのだから大学受験の平等など意味がないのである。その異なった夢を持つ二人に平等にチャンスを与えることなどできはしない。

 

「差別」はもう一つ異なる概念というべきだろう。「平等」は基本的権利のにおいをもつ概念だが、「差別」はこれと異なって、人間の他者への意識の問題である。そして、その意識が平等な扱いを否定してしまうことになったりするのだ。しかし、扱いの問題以前に、差別意識が問題なのである。これにはひとりひとりの、或いは時には民族同士の、長い歴史が創り上げる感情があるから簡単ではない。世界の争いはここから始まることが多い。

子供たちの学校での「いじめ」もこの差別が背景にある。習慣の異なるこども、経歴の異なる子供、癖の異なる子供、生活レベルの異なる子供へ、肌の色の異なる子供の感情が差別を生み、いじめに繋がったりする。しかし、これは平等のテーマには近くても「平等」のテーマを考えるのには役立たない。

やはり、人間はそれぞれの立場からどう生きるかを考えるのだ。それぞれが学び、訓練して自分の夢を実現するように努力する。その努力が報われることが大切なのだろう。しかも、努力しても生まれながらの才能からなかなか夢が実現しない人だっている。

誠実に努力してそれでも能力がつかない人と持ち前の器用さで才能を発揮しているけれど誠実さに欠ける人だっている。様々な人間がひとりひとりその人らしい方法で努力している。これをどう評価するのが平等なのだろう。

 

能力がない人でも、誠意のない人でも、努力する気持ちのない人でも、どんな犯罪者でも、人間としての尊厳を持つのだから・・・と考えれば人間としての根源的尊厳という意味ですべての人は平等に評価されるべきだと言うべきなのだろう。犯罪者はそれなりに償いをしながらそれでも人間の権利と尊厳を持っていると考えるべきなのだろう。

 

複数のネズミの群を檻の中で飼育していて、そこに発見できる「平均より優れたネズミ」と「平均的なネズミ」と「駄目ネズミ」を分類して、その群の能力を向上させるために「駄目ネズミ」を排除する。普通に考えれば駄目ネズミがいなくなるのだから優れた「ネズミ社会」ができると思いがちなのだが、しばらく観察するとちゃんと「駄目ネズミ」が群の中に発生しているのだという。群はそれ自体が一つの生命体なのだから駄目ネズミもその群のなかで役割を果たしているのだろうというのである。人間社会も同様だと考えられている。

はやり、駄目人間も役割を果たしているのである。それなら能力の優劣に関係なく駄目は駄目なりに社会が評価をする必要がある。

能力なりの収入を得ながら、その収入なりに生活をする。平等ではなくても最低限の生活を社会が保証していく必要がある。人間の尊厳と「それ自体、生き物のような社会」を構成する一部として権利を持っていると考えるべきなのだろう。能力主義だけでは済まされない評価が要求されることになる。

 

「平等」は社会秩序の問題であるだけではなく、人間の「尊厳」すなわち、「権利と自由」にも繋がる問題を含んでいる。膨大な考察と研究が必要なテーマになるのだが、それでも「平等」の概念は人間の内的問題にはなっていかない。

社会のあり方を決めることのできない中国と民主主具の国、日本を行き来しながら、人間のあるべき姿を考えている。政治の問題としてではない、人間の生き方の問題としてである。社会主義か資本主義かという問題でもない。イデオロギーの問題としてではなく、社会制度の問題としてでもなく、人間の心の問題としてこの「権利」と「尊厳」と「自由」と「平等」を考えている。

中国も日本も確かに「格差」がある社会である。富裕層であろうと貧乏人であろうと、人間の「尊厳」と「権利」と「自由」は内的テーマとしてしっかりと存在する。そして、社会主義社会だから、共産党一党支配の国だからといってこの「権利と尊厳と自由」のテーマは日本と異なることはない。

 

難しい話になってしまった。そのつもりはなかったのだが、どんどんこの難題の深みに填まってしまった。時にはこんな時間も価値があるだろう。