12月 31, 2013

一緒に上海へ行った友人が自由行動のあとでこんな報告をしてくれた。横断歩道がなかなかないから行き交う自動車の間を縫って何とか反対側に渡ったのだが、向こう側にいた見知らぬ人が声をかけてきたそうです。「あなたたち日本人でしょう?」と。あのような横断の仕方は中国人はしない・・・と言うのだそうである。

そう、中国人は自動車の流れを平気で横切る。自動車も歩行者を轢かないようそっと気遣いしてくれる。だから道路の横切り方のコツは細心の注意は払うのだが、恐れずがんがんと歩いて、止まることなく渡ることなのだ。立ち止まると車も「それなら僕が行く」とがっと突っ込んでくる。

この人間と車の関係は車と車の関係でも同じである。中国の道路には信号が少ないからチャンスさえ見えたら横切ったり割り込んだりは平気である。要はぶつからなければいいのである。中国の道路、特に北京の道路の車線は多い。たくさんの車線をがーとならんで走っている。車線の横には自転車道があり、歩道がある。

このたくさんの車線を車は自在に自在に車線変更して走っている。ちょっとでもチャンスがあれば割り込む。これは歩行者と自動車の関係と同じである。わずか50ミリ程度の感覚を残して上手く割り込む。過剰なほどに管理されて過ごしている日本人には異様なのだが中国人には普通のことである。日本はたくさんの法律があり、指示があり、作法があり、過剰なほどの社会性を要求されてその狭間を生きているのだが、中国ではその管理も指示も作法も希薄なのだ。

東北の大震災の時、東京駅で帰りそびれた人たちがおとなしく電話に行列をつくっている写真が全世界に配信されて賞賛されたのだが、見方を変えれば「世界で一番、管理されたおとなしい日本人」に見えただろう。日本は自由世界でもっとも管理された国だという。僕もそう思う。

そこから見ると、中国は作法がない、ルールがない。ルールを無視した無秩序な社会に見えてくる。もちろん、そんな中国ではネガティブなこともたくさん起こる。契約しても「こんな紙切れ・・」と破棄してしまう。約束しても「できれば支払いたくない」と思っているから最後の支払いは無視されることが多いらしい。税金もできらば支払わないように、いろいろ手を打つ。たしかに社会性がないかのように見える。しかし、自分に利益がもたらされる時にはお金は惜しげもなく支払う。贈賄がそれである。あくまでも彼ららしい方法で、安全に横断し、快適に運転し、上手に生きているだけなのだ。

作法や法律が我々の生活を縛っている。ネガティブに言えばそうなるのだ。ひとりひとりが幸せに過ごしながら人に迷惑をかけないことが大切なのだ。作法もなく法律もなく、それでも平和に過ごしているのが野生の世界である。強者は弱者を従え、ボスざるは雌ざるを独占するがそれも強い遺伝子を残す仕掛けである。強者が弱者を駆逐するからいい遺伝子だけが残されてその種の未来が保証される。過剰に繁殖すると種が滅びることを知っているから自然に淘汰されてある数を保っている。

人間事態も知れば知るほど巧妙にできている。そのように自然の仕組みは信じられはいほどに巧妙にできている。その自然の仕組み、人間という自然の仕組みをそのままに共存して生きる姿が中国に見ることができる。中国は不作法で文化度が低いと思ったらとんでもない間違いである。自然の力が生きているだけである。むしろ先進国の過剰な管理こそ反省するべきだろう。

子供の教育のことも再考するべきだろう。親の過剰管理がこどもの本能的能力の発達を阻害している。過剰に大切にされた現代人は生存の能力をなくしつつある。

中国のこの共存の原理を僕は「群の原理」といっている。素朴だが、ある意味では理想的な社会の構造である。個性的なひとりひとりが他者に配慮をしながら自分の欲望を実現させようとする。他者の欲望と戦いながら、全体が群として調和を保っている。

(写真は鳥の群)