2月 02, 2014

君なら好いた女性になんていう?「好いてるよ」なんていい感じだ。「好きだよ」、「結構、気に入ってる・・・」も悪くない。でも、なかなか「愛してる」というセリフを吐く状況が見えてこない。そこはきっとメルヘンチックな環境か、西洋の街角でなきゃしっくりこない。「愛」は始末の悪い言語で或る。

愛は奉仕的で見返りを求めないものであるらしい。一方的な愛である。愛はだから男女の間ではロマンチックでも現実的ではない。愛してあげたのだから愛してくれなくっちゃだめだ・・・というのでは愛じゃない。愛には沸き上がる感覚がある。それがまた感動的で人々の心を刺激するのだろう。愛は憎しみに変わったりもする。要するに愛は能動的なのだ。愛されなくても愛し、状況が変われば、殺したくもなったりする感情である。

これは結構、やばい。やはり、「好いてる」方がいい。好いているから好いて欲しいし、別れられなくなったりする方がいい。愛は憎しみになり殺したくなる感情だが、好きな人との関係は殺人ではなく情死になる。時にはわら人形に五寸釘を打つことになったとしても殺人には繋がりにくい。

愛には「愛する」という動詞がり、愛さなければ愛は生まれない。愛してたのが憎しみに変わるのは愛が能動的だからである。愛することは人の意思で決まる。愛さないことだってできる。憎しむことにだって変わることができる。実は「好いている」という感情の裏に「情」が裏打ちされている。さほど能動的でなくても「好きになる」のはその心の内底に人への「情」が潜んでいる。

「好き」がそのまま情ではないのだが、好きの感覚はまるでそよ風のような穏やかな感情の起伏である。「好かない」も「嫌い」ではない、好かないのである。

愛情は愛と情でつくられている。愛と異なるもう一つの概念、「情」には動詞がない。情を感じることはあっても「愛する」ように能動的ではないからである。愛することは止めることができるが情は切れない。切ろうとしても切れないから情には流されやすい。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 」。これは夏目漱石の「草枕」の冒頭のセリフである。愛は人を拘束しないが情は人を拘束する。能動的じゃなくむしろ生まれてから今日までずっと流れていた感情というべきだろう。同じ人間だから路傍で苦しんでいる人がいれば手をさしのべるし、見知らぬ人の苦しみを聞いて情を動かすことだってある。

情は人に中に原始時代から根付いている感情である。容易なことでは抜け出せない。愛は大きさで評価する。「あの人の愛は大きい・・・」と。情は深さで評価する。愛の大きさは偉大なことだけれど、情の深さは逃れられない人の性を思ったりする。愛は美しく太陽のようなのだが、情の美しさは悲しさも含んでいて月のようである。悲しい美しさということだろう。

愛は西洋のキリスト教が生み出した感覚なのだろう。「神への愛」が愛の出発点だったのだろう。そこから「人への愛」が生まれてきた。だから奉仕的であり見返りを求めない感情になる。近代以後、この愛の概念が世界に広がることになった。神の時代から人間の時代(近代)になって神は科学的な価値や人間の価値に置き換えられてきた。だから人への愛は近代思想の中心に据えられてきた。人が自分の心の奥底をのぞき込むとき、そこにあるのは愛ではなく情が見えてくるのだろう。

愛を否定するつもりはないのだが、愛はキリスト教の思想の延長だとだけは主張しておきたい。キリスト教は太陽が象徴だが、東方の美意識では月が美しい。月は太陽のように能動的に輝いてはいない。この受動的な、根源的な光を東方の人々は好んでいる。中国人に「愛」の概念は昔からあるのかと聞いてみたのだがないという。愛は近年になって使われるようになっただけだという。

愛におぼれることはない。愛は愛し続けなくてはならない。情には簡単におぼれることになる。逃げ出せないのだ。憎しみに変わるかも知れない愛を君はまだ欲しいのか?深い情にとらわれて切れない絆で結ばれたいのか?絆とは愛ではなく情がつくる。情は積極的な関係ではなく切れない関係である。

「好いている」。ここには爽やかな風のような心地よい感情がある。そっと情の深淵を覗き込みながら「好いて」いたい。

(写真は中国の長寿村「巴馬」)