2月 07, 2014

日経電子版に「北京ではカメラが売れなくなった」という記事を見つけた。世界でカメラは売れなくなりつつあると理解できるからその話かと読んでみてびっくりした。その記事を書いた或る経済人はこういうのだ。「北京では空気の汚染で美しい風景写真がとれなくなったからだ」というのである。ほとんど笑い話である。

つい最近までカメラは可愛い息子の成長や楽しい旅の記録のためだった。時が経って思いだし語り合う家族の象徴的存在だった。それが売れなくなった理由はもちろんスマートフォンである。スマートフォンはかめらではない。撮影のために買ったのではない。僕が中国で講演すると真ん前の席で僕にカメラを向けている。あいつ、ちゃんと僕の話を聞いていないなとちょっと不機嫌になる。その内、下を向いてスマートフォンをいじり始める。あいつ、メールしている。こんな講演の最中になんたること・・・と怒りがこみ上げてくる。

回りに聞いてみるとウィチャットをしていたのだろうという。彼は講演する僕の写真をとって「今、黒川雅之の講演会にいる」とウィチャットに送っているのである。沢山の人たちがそれを見て色々反応する。それが瞬く間に中国中に広がるのである。この頃、僕の撮影の動機もそうだ。あいつに見せたいな・・・とかフェースブックで報告しようと撮影する。記録なんかじゃない。自分のための思い出写真じゃない。

カメラはすっかり記録と保存から共感のための道具になった。成長の記録ではなく、自慢であったら感動をその場にない人々に知らせるために使われるよになった。写真映像はメールの文章と同じように通信のコンテンツである。カメラはカメラであって通信機ではないから決して共感の材料にはならない。瞬発的な通信、今の出来事をそのまま人に伝えたいという気持ちに答えることができないのだ。本格的カメラは別として小型のデジタルカメラはもう終焉の商品になった。

スマートフォンは携帯電話ではない。ガラ系といわれて再び、需要が増えてきたのもうなずける。携帯電話の欲しい人はガラ系のほうがずっと便利である。スマートフォンは小型の携帯型コンピュータデバイスなのだ。小さな携帯型コンピュータと思えばいい。だから撮影して送信して会話してと連続して様々なことができる。スマートフォンが普及しても画面の大きさのせいで不満のある人はiPadなどのタブレット端末を買えばいい。こうしてパーソナルコンピュータは売れなくなってソニーはその部門を売却する羽目に陥った。iPhoneやiPadはキーボードもできるけれどなしでも使えるコンピュータだからである。

携帯電話からスマートフォンへの移行は電話からコンピュータへの移行だったのだ。電話にどんなにいろいろな機能を追加してもコンピュータにはならない。携帯電話は携帯電話である。こうして多くのエレクトロニクスの大企業が零落していく。エレクトロニクス技術のさきにはこのデジタルの発想は生まれないのだ。デジタル発想のすごさはデジタル機器が本質的に「オープン」であることだ。カメラがクラウドを利用して、データを保存する仕組みをつくってもカメラはカメラだから保存でしかない。iPhoneやiPadのアプリケーションはほとんどすべてが外部の人間によって生まれている。だれでもiPhoneのアプリケーションを開発して販売できる。最初から発想が「すべての人に解放」されているのである。

スマートフォンやタブレット端末の登場はカメラや携帯電話の世界から見ると破壊的で革命的進歩だったのである。企業体質から人材のすべてを入れ替えなくてはならないほどに破壊的進歩だったのである。

1980年過ぎたころからIT技術が進歩していった。そして今世紀の始めから「情報革命」とも言うべき社会変化が起こっている。18世紀後半から19世紀全般にかけて起こった産業革命が世界の人口を飛躍的に増やし、近代化が進んできたように、情報革命は発展途上国を成長国に変え、世界をグローバルにしてしまったのである。地球規模で同時進行する経済、政治、文化になった。国の利害を云々している時代ではなくなった。アジアやアフリカ、ヨーロッパ、アメリカという文化圏での思索が重要になった。

経済でも文化でも政治でも、これまではヨーロッパとアメリカの二つの軸で動いていたのが、今ではもう一つの軸が生まれている。アジアの軸がそうだ。こうして世界は三つの軸で動く時代になった。

君のポケットに中の小さなスマートフォンが巨大な社会の変化をもたらしてのである。