2月 09, 2014

僕の大学院生時代のことだけれど、土地の少ない日本には海上住居がいいのじゃないかとエアテントによる浮上港の計画や海に浮かぶ住宅を構想していた。海を埋めて家を建てるのではなく海のままに家を浮かべればいい、という発想だった。三つの部屋がそのままフロートになって海に浮かびその上にデッキができる。デッキからは釣りだって楽しめる構想にちょっとご自慢だった。

なんの会だったか・・・パーティーがあって紹介されたのが堀江青年が太平洋を単独航海したマーメード号の設計者だった。僕は興奮してこの海上住宅の構想を彼に話した。にこっと笑って、彼は僕に優しく語ってくれたのだが、それは驚愕する内容だった。

海のエネルギーは凄いのだという。巨大なタンカーだって波の波長と舟の大きさが一致してしまうと舟が波の上に乗っかって折れてしまうという。どうしてマーメード号がなんども台風に遭いながら壊れなかったのはまるで木の葉のように翻弄されていたからなのだという。ちいちゃな木の葉が壊れないのは翻弄されるからだと彼は僕を諭してくれた。

どうやら多くの日本人は、いや人間は、思い違いをしている。日本人にとって自然は優しく心を和ませる存在だと思い込んでいる。沸き上がるような発芽に春の訪れを感じ、桜の花に春を見る。蟹や鰹や、様々な魚にその季節の到来を感じてよろこぶ。農耕民族で漁業にも従事する海洋国の日本人は自然の恐ろしさを知らない筈がないのだが、ふっと日常ではその強大な力を忘れている。自然に対して不遜になっている。

東北の被災地で建設しようとしている防波堤の計画を聞いたとき、僕はこの話を思い出した。防波堤のように自然の力に直接的に対応しようとする発想は間違いなのだ。それなのにまだ、あれほど防波堤の脆弱さをしりながらまだ、もっと強固な防波堤なら大丈夫だろうと思っている。自然と人間の関係のあり方をその本質から考えなくてはならないのに、自然の脅威に真っ正面から対抗しようとしている。

柔道だって相手の力を利用して投げる。飛行機だって自然の原理を利用して空を飛ぶ。自然に打ち勝つのではなく自然の欲するままにときに流され、翻弄されながらその力を利用して生き、自分たちの命を守る方法を考えることが大切である。

津波は強大だから街を「山に逃げて」建設するのでもなく、強大だから津波を「防波堤で防ぐ」のでもなく、家や街は津波に流されながら人だけは生き残る方法を考えないのだろうか。命だけは失ってはならないのだから避難の仕組みを完璧にすればいい。津波には「どうぞ!」と来てもらえばいい。津波の好きなようにさせて津波保険で同じ街で新しい街を再建すればいい。そうすれば故郷の山並みは保存できる。故郷のイメージは海と山の端線だろう。水平線と山の端に故郷の記憶が詰まっている。その記憶を継続できる。故郷はこころの避難所の筈である。

僕は災害の直後にブログで書いた。住んでいたところ人家を建てよう・・・とう提案だった。市民の一人ひとりの思いを込めたエネルギーが自分たちの街をつくる・・・それ以外に方法はないと思っていた。でも、被災地はすべて取り上げられた、お上が住民に保護をする構想になった。自分では家が建てられない、自分では復興できない構想になった。その結果はご存じのとおりである。

人間だって自然だ。自然の力は強大である。台風も津波も強大である。強大な自然に流されて・・・強大な市民の力で一人ひとりで復興する、というシナリオが実現できないままになった。人間主義が形式的になって不遜に自然と自然としての人間に立ち向かっている。

日本は中国を越える管理社会である。民主国最大の社会主義国だと言われている。そして、その問題と競い合うように、官僚たちは市民の力に不信感をもっている。

日本人は自然の脅威を忘れている。自然に好きなままに暴れさせながら生き延びる知恵をなくしている。傲慢な人間がはびこっている。人間にとっての自然の意味を今ひとつ深く考えることである。役所の過剰な管理も、市民活動への介入という意味では自然の意味を今一度、考えて見て欲しいと思う。

現代では人間のエゴイズムで自然を破壊している。人間中心主義が間違いなのだ。自然は僕たちの外にあるだけではなく、自分の中にあることを思うといい。自然への畏怖の念を忘れてはならない。